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今回は【2020年 対馬旅行記】その4をお届けします。
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対馬最大級の要塞 姫神山砲台跡を観光
2020年1月28日、「日本最強の城」と言われる金田城から、次のスポットへ向かいます。
次に向かうのは、対馬海峡を望む山の上に位置している「姫神山砲台跡」です。
カーナビの通り走っていたらこんな道に引き込まれました。GoogleMapでも確認しましたが、道はここしかないようです。口コミには「車で行くことが出来る」と書かれていましたが、これ以上進むのは危険な感じがします。
イノシシ用と思われる捕獲ケースが置かれているような道です。途中からは道端に車を停めて、歩くことにしました。
少し進むと距離を示す看板がありました。1.5kmであれば余裕で歩ける距離です。
道はアスファルトになりましたが、この先に車両での通行が困難な場所があるようなので、車を置いてきて正解でした。
そして歩き始めてから約20分、まるで映画のセットのような雰囲気の場所に到着しました。世界観としては「ジブリ」です。
要塞化の背景にあったロシアの進出
対馬は国境の島として要塞化が進み、1887年から1945年までに30箇所の砲台が建設されました。
対馬にある要塞の中で最大級の規模を誇る姫神山砲台跡。第一砲座から第三砲座があり、各砲座に2つずつ大砲(28cm砲)が置かれていたそうです。現在大砲は撤去されていますが、レンガ造りの建造物などはそのまま残っています。
対馬の要塞化が進んだ背景にあったのはロシアの進出です。その歴史は日本が鎖国をしていた1700年代後半まで遡ります。
イギリスで蒸気機関が発明され、多くの労働者が工場で働くようになり、工業生産が著しく増加。いわゆる「産業革命」が起こりました。欧米諸国では資本主義が急速に発展し、モノを売る市場や原料供給地、投資先などを求めて、アジアやアフリカなどに進出するようになります。
1861年(江戸時代末期)には、ロシアの軍艦・ポサドニック号が対馬にやって来て、浅芽湾・芋崎が占拠されてしまいました。イギリス軍艦の圧力により、半年後にロシアは撤退。ただイギリスも、ロシアが撤退しなければ、対馬占領を計画していたと言われています。
当時、東アジアへの進出を狙っていたロシアが計画していたのはシベリア鉄道の建設。その終点がウラジオストクに設定されると、日本と清(中国)はロシアのさらなる南下に備えるため、朝鮮半島を重要視するようになります。
当時の朝鮮は様々な近代化政策が進めらていましたが、1890年代には財政が厳しくなり、特に農民たちは貧困に苦しめられていたそうです。そして、各地で民衆が暴動を起こすようになり、1894年に大規模な反乱から甲午農民戦争が勃発しました。
争いを鎮めるため、朝鮮政府は清に軍の派遣を求めました。このタイミングで日本が、現地の日本公使館や居留民を保護するという名目で朝鮮半島に兵を送ったことで、今度は朝鮮半島を戦場に日本と清が戦争を繰り広げました(日清戦争)。
結果は日本の勝利。1895年に締結された下関条約で、日本は台湾と遼東半島を手にすることとなりました。しかし、やはり朝鮮半島進出を狙っていたロシアは、遼東半島が日本の所有となることに反発。ドイツ・フランスとともに、清に返還するよう求め、結局日本はこれに応じました(三国干渉)。
その後、ロシアは遼東半島に強固な要塞と軍港を作り、陸軍と艦隊を配備するなど、急速に中国東北部(満州)~朝鮮への侵出を進めることとなります。
日露戦争が始まる
いよいよ危機感を抱いた日本(明治政府)は、ロシアに対し、先手を打つことに決めました。
1904年2月8日、日本の艦隊は、朝鮮半島西部・仁川港と遼東半島南端・旅順港において、ロシア艦隊への奇襲攻撃を行いました。さらに、陸軍の部隊は仁川に上陸も果たし、2月10日に宣戦布告。日露戦争が始まりました。
戦争は日本が優位に戦いを進めます。太平洋側に置いていた戦艦のうち、残されたのは3隻のみという状況になると、ロシアはバルト海にいた艦隊をウラジオストクへ送り込みました。
通称「バルチック艦隊」は、ヨーロッパ・アフリカ方面から、インド洋を経由し、ウラジオストクを目指しました。ここでキーになるのが対馬です。
インド洋方面から最短経路でウラジオストクへ向かう場合、船は対馬沖を航行することとなります。津軽海峡や宗谷海峡を通過する航路もありますが、沖縄・粟国島の奥浜さんが、慶良間島と宮古島の間でバルチック艦隊を発見。艦隊が対馬海峡を通過することは確実視されました。
奥浜さんがバルチック艦隊を目撃してから数日後、対馬沖で日露戦争中最大の戦い「日本海海戦」が展開され、この結果、日本の勝利が確定的となりました。日本海海戦は、海外では「Battle of Tsushima」と呼ばれています。
姫神山砲台跡はパンフレットにも大々的には載っていませんが、想像以上に広く、大変見ごたえのあるスポットでした。ちなみに、神奈川県には「猿島」、和歌山県には「友ケ島」 という、似た雰囲気の場所があります。
■ 参考:2018年 猿島旅行記
車と砲台跡との往復で40分、見学は20分。約1時間雨の中にいたので、傘を差していてもさすがに全身濡れました。一方で、雰囲気的には雨が降っていてよかったとも思えたスポットです。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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