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今回は「2015年 軍艦島旅行記」をお届けします。
難易度高め 長崎・軍艦島上陸
前回ご紹介した黒島に続き、軍艦島もまた長崎での免許合宿中に上陸した島です。
朝8時、長崎駅にやって来ました。無人島・軍艦島には定期船が無く、5つの事業者が行っている上陸ツアーに参加する必要があります(2022年現在)。
私が訪れたのは2015年3月。まだ軍艦島が世界遺産登録される前のことです。この日はどのツアーも混み合っており、前日までに予約をしていなかった人は参加出来ない状況でした。
9時ちょうどに長崎港ターミナルを出港!写真の通り、デッキの席までぎっちり埋まっています。値段はツアー会社によって変わりますが、半日でおよそ4,000円前後です。
出港して間もなく、三菱重工業長崎造船所を通過。この時はクルーズ船らしき船が建造中でした。今回の上陸する軍艦島も、「三菱」の歴史が大きく関わっています。
船は長崎本土と沖之島・伊王島を繋ぐ伊王島大橋の下を通過し外洋へ。
出港から30分ほどで軍艦島が見えてきました。ただし、この時点ではまだ、島に上陸出来るか分かりません。軍艦島は水深が深く、潮流が速い外海にあることから、天候や波の高さに大きく影響されます。
私が訪れた2014年度は、上陸率が6割程度となる月もあったようです。2021年以降は、以下の条件が設定され、上陸難易度はさらに高くなりました。
(ア)伊王島沖に設置された波高計の測定値が、0.5mを超えるとき
(イ)許可事業者の船舶に設置された風速計の測定値が、端島周辺海域において5mを超えるとき
(ウ)視程が、端島周辺海域において500mに達しないとき
(エ)許可事業者の運航する船舶の船長が、見学者が船舶から安全に乗降できないと判断するとき
(オ)安全誘導員が、見学施設を安全に利用できないと判断するとき
ネットを調べると、『軍艦島の桟橋まで行って上陸出来なかった』という旅行記や口コミも見られますが、この日は運よく上陸することが出来ました。
軍艦島の歴史と三菱の関係
軍艦島の正式名称は「端島」。1921年、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦・土佐に島の外観が似ており、長崎日日新聞が『軍艦島』と紹介したことをきっかけに、今もその名称が定着しています。
海底から石炭が採れた軍艦島は、明治から昭和にかけて日本の近代化を支えたとして、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつに選ばれました。
高島で石炭が発見される
軍艦島の始まりは、隣に浮かぶ高島で1695年(江戸時代)に石炭が発見されたところから始まります。
当初石炭は鍋島藩(佐賀藩)によって採掘され、伊万里焼・波佐見焼の窯や、塩作りの塩水を沸かす際の燃料として使用されていたそうです。
1874年(明治時代)、高島炭鉱は国有化されると同時に、政治家・後藤象二郎が設立した商社「蓬萊社」に約55万円で売却されます。後藤氏はジャーディン・マセソン商会(1832年設立されたイギリスの商社)から、その代金を全額借りていました。
結局、炭鉱の利益を利息と手数料に充てるのが精いっぱいで、経営は火の車だったと言われています。ここで手を貸したのが福沢諭吉です。諭吉氏は三菱に高島炭鉱の買取を依頼。しかし、当時の三菱の社長・岩崎彌太郎はオファーを受け取りませんでした。
岩崎彌太郎と三菱
土佐藩出身の彌太郎氏は1870年、土佐藩から藩船3隻を借り受け、大阪に三菱の前身となる九十九商会設立。
その経営は、個人や会社にとらわれず、国家的目的を追求することを特徴としていました。1877年の西南戦争で、政府軍の輸送部門を一手に担い、日本の海運業で地位を確立することとなります。
弟の彌之助氏は高島炭鉱を総合的に評価し、「これは買収すべし」と彌太郎を説得。最終的に三菱は高島炭鉱を約97万円で買収。その後の三菱は海運業から炭坑・鉱山経営、造船業、銀行業、倉庫業、保険業など、幅広く事業の多角化を進めました。
彌太郎氏は1885年に死去。これを機に、海運業の競合であった共同運輸と日本郵船を設立。三菱は株式を保有する一方で、海運関係の資産と職員・船員は全て差し出し、海運事業を切り離したのでした。
人口密度世界一 石炭の島
1886年、岩崎彌之助を社長とする三菱社が発足しました。
彌之助氏の計算通り、高島炭坑は出炭量は全国の20%を占め、1870年代後半以降、三菱最大の事業となっていたそうです。火力発電の開始による石炭需要も増加し、三菱社は経営の中心に鉱業を据えます。当時の日本にとって、石炭や銅などは殖産興業の原動力であり、外貨に変換しうる資源。鉱業は国家とともに歩む三菱の哲学にも合っていました。
しかし、高島炭鉱の石炭の埋蔵量には限界があり、このまま行くと約7年で掘り尽くすのではないかとの危惧もありました。そこで三菱は、周辺の島々の採掘権を獲得し、試掘を繰り返すようになります。そこで可能性を見出されたのが端島(軍艦島)でした。
1890年、三菱社は端島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の採掘を開始。ちなみに同じ年、三菱は丸の内と神田三崎町の土地、合わせて約10万7千坪を一括買取し、丸の内に洋風建築の一大ビジネスセンターを誕生させています。
1907年、清水建設が三菱鉱業高島炭坑端島坑(通称軍艦島)の建設を開始し、もともと小さな岩礁にしか過ぎなかった端島は、徐々にその面積を広げていきました。Wikipediaによると、1941年は約41万トンを出炭し、端島の歴史における年間最高出炭を記録した一方、この頃の生活環境は極めて劣悪で、朝鮮人・中国人・日本人を合わせた、住人の40%近くが亡くなっているそうです。
戦争が終わると、復員者の帰還によって1948年以降は人口が急増。計7回の拡張工事が行われたそうですが、それでも島の周囲は約1.2km。1960年の端島には5,000人以上が暮らしており、その人口密度は世界一でした。
土地が限られているがゆえに建物は高層化。島には日本初の鉄筋コンクリートアパートや、保育園・小中学校、神社、映画館、パチンコなどの商業施設などもありました。さらに、それらの施設は廊下で繋がっており「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」とも言われたそうです。究極のコンパクトシティがここにあったのです。
石炭の需要がたくさんある一方で、島に住むことが出来る人数が限られているということは「稼げる」ということです。「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」の普及率が全国で20%だった時代に、端島の普及率は100%だったと言われています。
その一方、労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が増加したにも関わらず、石炭の生産量は大きくダウンしました。
廃墟群が世界遺産に
そして、エネルギー革命により需要は石炭から石油へ。
1974年に炭鉱は閉山。仕事が無くなった端島は人口が急減し、閉山と同じ年に無人島化。島への上陸も禁じられました。島の所有者であった三菱マテリアル株式会社(元三菱鉱業)から正式に高島町へ譲渡されたのは2001年のことです。
1997年、やまさ海運が不定期で軍艦島へ遊覧船の運航を開始。2004年から定期便化すると、年間5,000人弱の乗船客を集め、2006年には年間1万人を突破しました。軍艦島の観光地化が本格的に進むのは2009年1月から。この月、軍艦島は「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつとして、ユネスコ世界遺産暫定リストの国内候補に選ばれました。
2009年4月、軍艦島の上陸が解禁。そして2015年、世界文化遺産に登録されました。現在も島全体を歩くことは出来ませんが、それでも十分、繁栄の面影を感じる事が出来ます。
世界遺産に登録されたことで、今後は「現状維持」が求められますが、廃墟を維持するには相当の費用がかかることや、どの範囲を維持すれば良いか不明確であるという問題もあるようです。
ユネスコや国などから自動的に補助金が交付されることはありません。長崎県はもうひとつ、教会群も世界遺産に登録されているため、そちらの維持にもお金がかかります。果たして軍艦島は、今後どのようになるのか。その動向に注目していきたいと思います。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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