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今回は「2015年 佐世保・黒島旅行記」をお届けします。
長崎佐世保・黒島上陸
日本にはいくつか「黒島」という名前の島がありますが、今回ご紹介するのは長崎県佐世保市の黒島です。
場所はこちら。佐世保湾から平戸までの約25kmの海域に浮かぶ九十九島(実際は208島)の中で、最も面積が大きな島です。
島を訪れた当時、私は佐世保の自動車教習所で免許合宿に励んでしましたが、持参していた「るるぶ」に小さく黒島が紹介されており、興味を持ったのでした。
教習がお休みだった2015年3月のある日、私はついに黒島へ渡るべく、船が出る佐世保市・相浦港にやって来ました。船は1日3便運航されているので、日帰りで島旅を楽しむことが出来ます。
相浦港から黒島までは、途中高島を経由し、約50分の船旅です。
黒島に到着しました。
島の北に平戸島、南に西海市、西に五島列島があるため、波の影響はほとんど受けず、年間を通じて船が揺れることは少ないと思われます。
島の1周は約10km。15時半の船で帰るので、約4時間半の滞在です。現在はレンタカーや電動スクーター、レンタサイクルもあるようですが、当時はそのことを知らなかったので、反時計回りに島を歩いて巡ることにしました。
港からは早速上り坂。港が下に見えています。歩き始めてすぐ、「乗っていきな!」と島の方に声を掛けられる、いわゆる逆ヒッチハイクをしていただきましたが、この時はまだ島旅に慣れていなかったこともあり、断ってしまいました。
島を歩いて観光
最終的に島を1周することは出来ず、島の左半分を巡って終わったので、ここからは順不同に景色の写真を並べながら、黒島をご紹介します。
日本で一番島の数が多い長崎県。離島振興法の対象となっている有人島だけでも50あります。
2020年の国勢調査によると黒島の人口は384人。島内に小中学校もありますが、65歳以上の方が52.6%を占めています。長崎県にはもうひとつ「黒島(五島列島)」という名前の有人島がありましたが、そちらは2022年に最後の島民の方が亡くなり、無人化したようです。
島の主要産業は漁業。観光協会のホームページには「従事者が島全体の70%を占め」とありますが、国勢調査では島民の3割の方が漁業に従事していると分かります。マグロの養殖をはじめ、小規模ながら様々な種類の漁が行われているそうです。
また、農業に従事している方は少ないですが、どうやらこの赤土が根菜類の栽培に向いているようで、イモをはじめ、四季折々の野菜が栽培されています。
道路に椿が落ちていました。江戸時代、米の収穫量が少ない五島列島では、米の代わりに椿を納めていたと言われています。黒島では当時、何を年貢として納めていたのでしょうか。
田んぼもあったので、稲作も行われているようです。
一方こちらは山茶花(サザンカ)。パッと見では椿と似ていますが、よく見ると花の形が異なります。
根谷地区には、樹齢250〜350年と推定される大きな山茶花もあり、その油が人々の暮らしを支えた時期(江戸時代)もあったそうです。
現在、鉱業・採石業・砂利採取業の従事者は0となっていますが、かつては御影石の切り出しも行われ、島内の建築だけでなく、島外にも積み出されていました。
島で一番の絶景スポット・蕨展望所に到着。この石も御影石なので、今も必要に応じて切り出しが行われているのでしょう。
天気がいいと左手に長崎本土(西海市付近)、右手に五島列島が見えるようですが、この日は曇っていたため見えず。
それにしても綺麗な菜の花です。晴れていれば、海ももっと綺麗に見えて、最高のロケーションなるはず。ここでは、島民の方によって、季節ごとに花が整備されています。
道沿いにも菜の花が咲き誇っていました。
こちらは巨大なアコウ。アコウは亜熱帯性の植物で、沖縄や鹿児島ではよく見られますが、それ以外の地域ではあまり見かけることがありません。
自生するアコウの北限は佐賀県唐津市。黒島からそう遠くはない場所です。暖流・対馬海流の影響を受けて、黒島が年間を通じて温暖な気候であることが伺えます。
世界遺産の教会・黒島天主堂
私が黒島を訪れた2015年当時は観光客が少ない島でした。
2018年、こちらの黒島天主堂が『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』として、世界遺産に登録されたことをきっかけに、島の名前が知られることとなりました。
黒島の御影石と40万個のレンガを使い1902年に完成。教会が完成したのは、1889年の大日本帝国憲法によって、国民に信仰の自由が認められた後のことですが、黒島ではそれよりも前から、キリスト教信仰が普及していました。
観光協会のホームページによると、1599年、平戸藩の家老・山口治左衛門(キリスト教徒)が追放を逃れて黒島へやって来たことが、黒島におけるキリスト教信仰の始まりとされています。しかしそれから間もなく、1612年にキリスト教禁止令が出され、信仰を続けるのは難しい状況になったそうです。
■ 参考:キリスト教と長崎の歴史
江戸時代、平戸藩に属していた黒島には、藩の牧場が置かれていました。1700年代になると、開拓を目的として、平戸藩の主導で黒島への移住政策が行われ、牧場廃止後は跡地開拓のためさらに移住が推進されたそうです。
同じ時期、五島藩の人口減少を解消するため、人口過密状態の大村藩から人々の島移住も行われています。黒島では平戸藩以外の人々にも居住が許可されていたため、一部の人が黒島に上陸したものと思われます。
大村藩から島への移住を希望したのは、迫害されていた潜伏キリシタンでした。彼らが上陸した島のひとつ「野崎島」では、潜伏キリシタンたちが神社の氏子を装っていたそうですが、黒島にも神社があるため、恐らく野崎島と同様の状態だったと考えられます。
■ 参考:2017年 野崎島旅行記
さらに島内には、「興禅寺」というお寺もあり、島民はすべて檀家として寺に所属していた(=寺にお布施などを払っていた)そうです。心の底ではキリスト教を信仰しながらも、その信仰を守るために、建前上は他の信仰も許容していた様子が伺えます。
黒島の名前の由来も「クルス(十字架)の島」が由来と語られるほど信仰の深い島で、今でも島民の8割がカトリックなのだそう。お墓も十字架ですが、ここでは御影石が用いられており、現代日本風のお墓とミックスされた珍しい形となっています。
ということで、黒島の散策はこれにて終了。当時は商店などは見当たらなかったので、昼食抜きでひたすら歩き回りました。
さらば黒島。船が途中で経由する高島には上陸出来なかったので、いつかリベンジしたいと思います。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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