歴史上初めてロシアとの交易が行われた地~網地島とベーリングの関係|2022年 網地島旅行記3

宮城県

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今回は「2022年 夏 宮城県の島旅」旅行記その8をお届けします。

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日本の歴史上初めてロシアとの交易が行われた地

宮城県石巻市の沖合に浮かぶ網地島は、日本の歴史上初めてロシアとの交易が行われた地と言われています。

海から見た網地島

1739年、網地浜の漁夫・喜三兵衛は、通りかかったロシア船に乗り込み、食事を提供してもらい、谷川浜の百姓・平三郎はロシア船に「たばこ」を丸めて投げ入れ、銭貨を投げ返してもらったことが日本側の記録に伝わっています。

また、ロシア側の記録によれば、漕ぎ寄せてきた二艇の漁船から漁民が乗船し、新鮮な魚や野菜、米、煙草等を広げたので、ロシアの銭貨と交換したそうです。しかし、当時の日本は鎖国中。なぜ網地島にロシアの船がやって来たのでしょうか。

ベーリングと網地島の関係

1695年、江戸に向かっていた廻米船がカムチャツカ半島南岸漂着。この船に乗っていた大阪商人・伝兵衛の話を聞いて、ロシア大帝ピョートル1世は日本に関心を持ったそうです。

日本との交易を実現するため、まずは当時未知の海域となっていた北太平洋海域の調査が始まりました。この北方海域調査隊長を命じられたのがデンマーク出身の海軍大佐・ベーリングです。ベーリング一団は1725年2月にペテルブルクを出発し、3年半後の1728年8月にユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きでないことを発見。2大陸を隔てる海峡は現在「ベーリング海峡」という名で知られています

■ 参考:1

ベーリング一団は1730年にサンクトペテルブルクへ帰還しましたが、海の向こうにあるアラスカの調査が出来なかったことに加えて、ロシアのシベリア植民を一層推進させるため、第2次探検隊の派遣が求められました。ベーリングは再び隊長に志願し、500人以上を率いて1733年にペテルブルクを出発。途中、ヤクツークで探検の準備をして、東方の町・オホーツクに到着したのは1737年のことです。

■ 参考:2

長渡集落にて

ベーリングの第二次探検隊に加わった一行のうち、デンマーク人のマルティン・シパンベルク大尉に率いられた4隻の船が、1739年6月1日にカムチャツカ半島のボリシェレツクをから、日本への航路発見の航海に出ました。このうちの3隻が網地島沖で投錨したようです。仙台藩主伊達重宗は、この出来事を江戸老中・本田忠重に報告しています。

■ 参考:3

元文の黒船

濃霧ではぐれた他1隻は、安房国長狭郡天津村(現在の千葉県安房小湊町)の沖に達し、食料補給のため、乗組員がボートで上陸。彼らはさらに伊豆・下田沖に達しました。

「ようこそ網地島へ」の真ん中には世界地図が描かれている

このときに持ち込まれた銀貨が、土地の領主から幕府に提出され、幕府が長崎のオランダ人に確認し、ロシアのものであることが判明したそうです。一連の出来事は「元文の黒船」と言われています。

網地白浜海水浴場にはベーリング像が置かれている

また、ベーリングの探検によって注目されたのが、北太平洋海域に生息する「ラッコ」です。その毛皮は「柔らかい黄金」と呼ばれ、ロシアはラッコ猟の食料補給地として、日本との交易を望みました。そして1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航。漂流民を届けると同時に、鎖国中の江戸幕府に通商を求めたのです。

■ 参考:鎖国の日本に接近したロシアと北海道開拓

網地白浜海水浴場にあるベーリング像の横には「その昔、遥かな道の海を渡って来た、勇敢なるロシア艦隊のデンマーク人達、そして未知の彼らを温かくもてなした島の先人たち。これまでも、これからも、祖国は違っても、変わることのないその友情を祈念して、その総司令官V.J.ベーリングの彫像を建立します」と書かれていました。

ということで、さらば網地島。短い滞在時間でしたが、島を満喫することが出来たと思います。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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