噴火するヒッピーの島・諏訪之瀬島上陸!火山灰降る島を歩く|2022 トカラレントゲン便旅行記2

旅の思い出

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今回は「2022年 トカラ列島 レントゲン便旅行記」その2をお届けします。

★前回の記事★

レントゲン便で噴火する諏訪之瀬島へ

トカラ列島の各島に接岸する間に、船内で健康診断を行う十島村の村営船・フェリーとしま2の「レントゲン便」に乗船。

船の停泊中、レントゲン便の乗客は各島に上陸することが出来ます。中之島の次は諏訪之瀬島。島の中央にある御岳(標高799m)は、この日も黒い噴煙を上げていました。

気象庁より

こちらは2022年の諏訪之瀬島・御岳の爆発日別回数。鹿児島のシンボル・桜島の噴火と爆発が年間235回であるのに対し、諏訪之瀬島はその約6倍の1,329回となっています。

桜島よりも噴火(爆発)している?

ここで注目すべきは、表のタイトルにある『爆発』という表現です。噴火と爆発の違いについては、南日本新聞の記事で詳しく解説されていました。

気象庁はこれまで「噴火」「爆発的噴火」「爆発」という3種類の表現を用いていましたが、学術的定義が曖昧であるという理由で、2019年に原則『噴火』に統一されました。

現在、全国にある50の「常時観測火山」のうち、気象庁が「噴火」と「爆発」を使い分けているのは、桜島・諏訪之瀬島・霧島山・口永良部島の4火山のみ。その背景には「地元に定着している」という理由があるそうです。

「噴火」と「爆発」の基準は、4つの火山それぞれに定められているため、単純に『桜島よりも諏訪之瀬島の方が爆発の回数は多い』と言うことは出来ません。ただし、どちらの火山も噴火が多いことは事実です。

気象庁では、噴煙の高さと噴石の飛散が、それぞれ100mから300mを超えた場合を噴火としています。桜島と諏訪之瀬島の場合、この基準ではあまりに回数が多くなるため、噴煙の高さがおおむね1000m以上の場合のみ公表されているそうです。

気象庁の【諏訪之瀬島 2022年 爆発日別回数(上の表)】を見ても、私が訪れた2022年5月17日の爆発は0。つまり、この映像よりも凄い迫力の噴火が、年間1300回以上も起きているというから驚きです。

人口78名 火山灰が降る島に上陸

諏訪之瀬島の存在はほとんど知られていませんが、こうした噴火は今に始まったことではありません。

こちらは船から見えた乙姫の洞窟。その由来についての詳細は不明ですが、乙姫といえば竜宮城に住むとされているお姫様。そうした古い伝説も残されている他、少なくとも江戸時代には島に定住する人たちがいました。

1813年(江戸時代)に大噴火が起こると、全島民が島外へ避難したため、諏訪之瀬島は無人島となりました。

1883年(明治時代)、奄美大島出身の藤井富伝氏が26名を率いて諏訪之瀬島に上陸。耕地を開拓したことで、その後も人々が島に定住し、現在に至ります。こうした島の歴史は、東京都の秘境・青ヶ島にも似ています

★参考:青ヶ島旅行記★

青ヶ島にも、1785年の噴火で全島民が島外へ避難した歴史があります。1835年、青ヶ島では元々島に住んでいた人たちが「還住(再び島に住む)」を果たしましたが、諏訪之瀬島は島にルーツがない開拓者が上陸したという点で異なります。

諏訪之瀬島に接岸

また、絶海の孤島を明治の開拓者が開発したという点は、沖縄の大東島にも似ています。明治時代まで人が戻らなければ、青ヶ島にも開拓者が上陸していたかもしれません。

★参考:大東島の開拓★

10時半、諏訪之瀬島に上陸しました。堤防も火山灰に覆われて黒くなっています。

港ももともとはこの色ではありません。

火山灰が降り積もってこの色になっています。

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島を1周する道路はなく、集落は島の南端に集中しています。噴火の影響が少ない場所が選ばれて、開拓されたことが伺えます。

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諏訪之瀬島を開拓した藤井氏らは「耕地を開拓した」ということで、島民の皆さんは農業で生計を立てていたと思われますが、植物の葉も火山灰に覆われています。

もちろん土にも火山灰。

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それでも2020年の国勢調査による島の人口は78名と、過去20年で一番多くなっています。特に14歳以下の子供の数が22名と、年少人口の割合は十島村の中で最も高いです。

子供が増えると先生の数も増えます。諏訪之瀬島には小中学校があり、島の産業構成を見ても「教育、学習支援業」に従事している人が最も多いです。また、こうした環境でも、農業に従事する方は6名いるようです。

ヒッピーが暮らしている?

戦後の十島村は、米軍統治の時代を経て、1952年に本土への復帰を果たしました。

しかし、諏訪之瀬島では1960年代までに若者が減少し、島存続の危機にあったそうです。

砂浜も黒い

当時の村営船は諏訪之瀬島に接岸することが出来なかったため、沖合に停泊し、小型船に乗り換えて島に上陸する「艀(はしけ)作業」が行われていました。島から若者がいなくなると、この作業が出来なくなってしまうのです。

原付も火山灰まみれ

困り果てた島民の皆さんは、世界を放浪していた詩人・榊七夫氏が島を訪れた際、若い人たちを島に連れてきて住んでもらうよう懇願。

噴火の島を歩く

1967年、榊氏は諏訪之瀬島に移住。当時所属していた東京の「部族」の仲間にも声を掛けて、アメリカ人の詩人ゲーリー・スナイダーなどとともに、島に「バンヤン・アシュラム」という共同体(コミューン)を作りました。

火山灰が付いた船

コミューンは、ヒンズー教や仏教を通して人間の感性に向かう自給自足を行う集団だったそうで、世間的には「ヒッピー」と呼ばれていました。

『諏訪之瀬島』で検索しようとすると、候補に「ヒッピー」が出てくる背景には、こうした事情があるのです。

ミラーにも火山灰が付いている

そして、このコミューンを求めて多くの若者が島を訪れ、共同生活は1970年代後半まで続きました。コミューンの人々の多くは島から出ましたが、一部は島民になり、今でも暮らしている人がいるそうです。

十島村で唯一の飛行場

諏訪之瀬島での滞在時間は約1時間

港から約1.6km歩いた場所にある飛行場へやって来ました。案内板には「1972年にヤマハが南西諸島にリゾート施設を開発していたときにできたものである」と書かれています。

火山灰に覆われた全長約700mの真っ黒な滑走路。1970年代の離島ブームに乗じて、株式会社ヤマハリゾートは諏訪之瀬島・屋久島・硫黄島(三島村)にリゾート施設を建設。1977年に開業した『旅荘吐火羅』の送迎用にこの飛行場が併設され、鹿児島空港からの定期便が飛んでいました。

しかし、沖縄の本土復帰や海外旅行の自由化により離島ブームは終焉し、旅荘吐火羅は1982年に閉鎖。翌年には定期便も終了し、再びトカラ列島は「船でしか行けない島々」となりました。

★参考:硫黄島にもヤマハリゾートの面影が残る★

1997年から飛行場の管理は村に移管。非常用のヘリポートとして活用されてきましたが、2022年10月、鹿児島空港からの航空便が再開。2023年4月現在、十島村唯一の飛行場として、週2便・定員3名・片道6万円という体制で運航されています。

私が訪れたときは、ちょうど航空便再開に向けた工事の最中。工事名には「避難ターミナル新設工事」ともあり、飛行場施設が噴火時の避難所にもなるようです。

ちなみに、滑走路の下にはこの島で(「十島村で」かもしれない)唯一のトンネルがあります。

さらば諏訪之瀬島

ということで、港へ戻ります。

それにしても凄い降灰です。スマホもあっという間に火山灰まみれ。

降灰の勢いが増してきたので、途中からは傘をさして歩いていました。

噴煙と火山灰の影響で晴れ間も少ないと思われます。

こうした環境でも暮らしている人、移住する人がいる背景には、何か理由があるはずですが、レントゲン便の短い滞在では分からず。

さらば諏訪之瀬島。

またいつか上陸したいと思います。次に船が寄港するのは平島。約50分の船旅です。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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