ブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は「2016年 ジープ島旅行記」その3をお届けします。
★前回の記事は こちら ★
トラック環礁で沈没船シュノーケル
2016年2月、初めての海外旅行でミクロネシアの無人島・ジープ島に上陸しました。
滞在2日目はボートでジープ島周辺のトラック環礁を探検。基本的にはイルカを探しながら、途中にある沈没船でシュノーケルを体験します。ツアー料金は1万5千円でした(現地にて日本円で支払い)。
ダイビングチームとシュノーケルチームに分かれてボートで移動。足が全く付かない海に飛び込んで泳ぐのは初めてのことで、まずは水中へ潜る泳ぎ方を教えていただきました。
そして、沈没船があるポイントへ。これは太平洋戦争時代に日本軍が使用していた戦艦です。サンゴがびっしりと付いて、今は魚たちの住処となっています。なぜここに日本の船が沈んでいるのでしょうか。
「初めての海外旅行でミクロネシアに行った」という話をすると、【ミクロネシア】の知名度は高い一方で、その場所はあまり知られていない気がするので、まずはここから説明する必要があります。
太平洋上には小さな島々が無数に点在しており、それらは大きくミクロネシア・メラネシア・ポリネシアの3地域に分けられます。ミクロネシア地域にはミクロネシア連邦・キリバス・パラオ・マーシャル諸島・ナウルという5か国があり、ジープ島はミクロネシア連邦にある607の島のひとつです。
なお、ミクロネシア地域の範囲には諸説あるようで、PICの説明ではサイパン島がある「マリアナ諸島」が含まれていたり、写真のような非常に小さな島もあったりするので、島の数はきっと曖昧です。
ミクロネシア地域の島々が5つの国々に分けられたのは戦後のこと。戦前の文脈で登場するミクロネシアは、この地域の島々をまとめた総称でした。
南洋群島と太平洋戦争の歴史
ミクロネシア連邦の海に戦時中の日本の戦艦が沈んでいる背景を知るためには、16世紀の大航海時代まで歴史を遡る必要があります。
ポイントになるのは日本最南端・沖ノ鳥島よりも南に浮かぶ赤道周辺の島々。1525年、ポルトガルの探検隊がヤップ島を発見し上陸。次いでスペイン人が1529年にポンペイ島、1565年にウエノ島(チューク)へ寄港しました。
スペインは1565年にフィリピンの島々を植民地化。1595年にはポンペイ島もスペインが自国の領土であると宣言しましたが、ここではカトリック布教以外の活動をせず、実質的な統治は行いませんでした。
太平洋の島々に西洋諸国が訪れるようになるのは、帝国主義が盛んになった1800年代後半のこと。ドイツはヤップ島に貿易拠点を開設(1869年)した後、1885 年にマーシャル諸島のヤルート環礁を占領、さらに1888年にはナウルも領有します。ギルバート諸島は1892年にイギリスの保護領となりました。
■ 参考:1
ポンペイ領有を宣言してから約300年、こうした動きに慌てたスペインは、1885年から1886年にかけてグアム・サイパンなどのマリアナ諸島、ヤップ島からコスラエ島までのカロリン諸島の領有を宣言。太平洋の島々は西洋諸国によって分割されました。
1898年、キューバ独立を巡る対立から米西戦争が勃発。この結果、スペインはグアムとフィリピンを失い、両島々はアメリカの統治下へ入りました。またドイツは、敗戦で財政破綻に陥っていたスペインと交渉し、1899年にマリアナとカロリンの島々を買収することに成功。これにより、ミクロネシアの大部分がドイツ領になったのです。
ドイツの関心はミクロネシアの統治というよりも、ドイツ人が経営するココヤシの生産。熱帯・亜熱帯気候だけで栽培可能なココヤシ(コプラ=ヤシ油)は、ドイツの工業や農業において必須の原料でした。
また、ナウルやアンガウル島(パラオ)のリン鉱石も、農業で不可欠なリンを補給する最良の化学肥料として注目を浴び、採掘されるようになりました。
日本とミクロネシアの関係
1900年代に入ると、日本も貿易を目的にこの地域を訪れるようになります。
明治初期の日本の人口は約3,300万人。当時の課題は、生産量を上回る過剰人口の海外移民や移住でした。欧米列強が植民地拡大競争を繰り広げる国際環境の中で、次第に南方の新天地が求められるようになります。その皮切りとなるのが小笠原諸島の領有と言えるでしょう。
■ 参考:小笠原諸島の歴史
明治時代の政治家・榎本武揚は、ボルネオ島(現インドネシア)とニューギニア島を買収し、その開拓に日本人を送り込むべきだと主張。1891 年に外務大臣へ就任すると、太平洋の島々やニューギニア、マレー半島に専門家を派遣し、その実現性について調査を行っています。こうした1800年代後半の「南進論」が、1900年代へ引き継がれて行くのです。
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告。手薄になっていたドイツ領ミクロネシアの島々(現在のミクロネシア連邦・パラオ・マーシャル諸島・北マリアナ諸島(サイパンなど))を占領することに成功し、1945年の敗戦まで「南洋群島」という名で統治しました。
日本はチュークに臨時南洋群島防備隊司令部を置き、トラック・サイパン・パラオ・ポンペイ・ヤルート・ヤップに守備隊を配置。さらに、世界へ向けてミクロネシアの領土権を主張し、イギリス・ロシア・フランスからは承認を取り付けましたが、これに反対し続けたのがアメリカのウィルソン大統領です。
アメリカは国土の一部であるハワイと、植民地フィリピンとの間にあるミクロネシアの島々が、事実上日本の植民地になることを警戒。結局、1920年のヴェルサイユ会議において、国際連盟はミクロネシアを日本の委任統治領とすることを決定しました。
さらにアメリカは日本の勢力拡大を警戒し、1921年にワシントン会議を招集。四カ国条約が調印され、日米英仏の四ヵ国間で太平洋の現状維持が約束されるとともに、日英同盟の破棄が決まりました。このあたりから、日本とアメリカの関係が悪くなっていったようです。
トラック大空襲
ミクロネシアの島々が日本の勢力下に入ると、商社の進出が相次ぎ、サトウキビ栽培や製糖業が興りました。
1921年、第一次世界大戦後の不況の影響で倒産した南洋殖産と西村拓殖を吸収合併する形で設立された南洋興発株式会社は、すでに現地で働いていた日本人移民を支援しつつ、ミクロネシアの開発に着手。
開発を進めるにあたっての人材は、現地の住民に知識や技術移転を行うのではなく、第一次世界大戦後に「ソテツ地獄」と呼ばれる大不況で苦しんでいた沖縄県民を大量に採用しました。その背景には、沖縄の人が暑い地域でのさとうきび栽培に慣れていることもあったそうです。
1939年のミクロネシアには4万人以上の出稼ぎ沖縄県民がおり、移民からの送金がこの時代の沖縄経済を支えました。こうした名残から、ミクロネシアには今も日本語を話せる人がいたり、「金太郎」という名前のおばあちゃんがいたりもするそうです。
1941年12月8日、太平洋戦争が始まりました。1942年のミッドウェー海戦で日本軍が敗れたのを機に、連合軍の攻勢が本格化。1942年8月、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック諸島に移し、ミクロネシアの島々にも守備隊が駐屯しました。
■ 参考:第二次世界大戦までの流れ
周囲200kmにもなる「トラック環礁(サンゴ礁の防波堤)」に囲まれたトラック諸島。海はいつも穏やかで、有名な戦艦「大和」「武蔵」も、1942年半ばから1944年初頭までトラック環礁に停泊する時間が多かったそうです。ただ、両戦艦は冷房も食料もあったことから、大和ホテル・武蔵御殿と皮肉られました。
日本の軍艦が集結している場所は、敵軍にとって重要な攻撃対象です。1944年2月17日から18日にかけて、トラック諸島に大空襲が襲いました。日本軍が出した損害は、輸送船31隻・艦艇10隻・航空機278機。2000人以上の犠牲者を出したそうです。
■参考:2
ジープ島周辺には、空襲で沈んだ日本の船が今も海底に残されています。ちなみに、大和と武蔵は大空襲の直前にトラック環礁を離れていたため、攻撃を免れました。
現在、トラック環礁は「世界一の沈没船ダイビングスポット」と言われています。映画「タイタニック」に使われた船も「富士川丸」という日本の戦艦で、ダイビングツアーで見学することが出来ます。
数々の沈没船を調査し、トラック環礁を世界一の沈没船ダイビングスポットと言われるまでの場所にしたのがキミオさん。チュークのレジェンドとなっているそうです。
どうやら観光用に遺骨が残されている戦艦もあるそうですが、そうしたダイビングツアーに、日本人は参加することが出来ないという話も伺いました。
かつての飛行場・竹島上陸
午前中は沈没船シュノーケルを体験し、お昼休憩で上陸したのは「竹島」。
日本統治時代の名残から、ミクロネシアには日本風の名前が付いている島が多く、春夏秋冬や月火水木金土日が付いた島もあります。ちなみに、小笠原諸島周辺の島々は父母兄弟妹嫁など、家族に関わる島名です。
コバルトブルーの海に囲まれた上に、ヤシの木々が立ち並ぶ、イメージ通りの南国の景色が広がっていますが…
こちらの写真は日本統治時代の竹島。木々もなく、島全体が飛行場になっていました。
竹島の近くの海底には、ゼロ戦も沈んでいるそうです。
現地の方が大きな刃物でココナッツをカットしています。
カットされたココナッツは、その場でジュースとしていただきました。昼食のおにぎりを食べて、午後は再びイルカを探しながらジープ島へ戻ります。
.
今回はここまで。本日もありがとうございました。
★続きはこちら★
コメント