開国しても海外旅行に行けない?江戸時代以降の日本人と海外渡航の歴史|2023 旅行記10

静岡県

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今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その10をお届けします。

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日本人と海外航行の歴史

2023年7月15日、開国の町・伊豆下田を歩いて観光しています。最後にご紹介するのは『吉田松陰拘禁の跡』です。

欧米列強から日本を守るには、西洋の実情を知ることが不可欠だと考えていた吉田松陰。しかし当時の日本は鎖国の時代で、海外渡航が固く禁じられていました。松陰はその禁を破り、密航を決意します。

異文化交流黒船ミュージアム「Mobs(モッブス)」にて

嘉永7年(1854年)3月18日、ペリー艦隊を追って下田に到着。港の様子を観察しながら9日間にわたって行動を続け、ついに3月27日の深夜、旗艦ボーハタン号に小舟で漕ぎ寄せ、渡米を願い出ました。

しかし、ペリー(通訳ウィリアムズ)はこの申し出を拒否。松陰は潔く自首し、当時この場所にあった寺に拘禁されたと伝えられています。それでは、日本に住む民間人の海外渡航(旅行)は、いつから認められるようになったのでしょうか。

■ 参考:1

海外渡航が出来なかった時代

マレーシアにて

戦時中から戦後にかけて、日本国民の海外渡航は厳しく制限されていましたが、経済成長や国際社会への復帰に伴い、徐々にその規制は緩和されていきます。まず、1963年4月1日には、年間総額500ドル以内での業務渡航が認められ、海外渡航が一部解禁されました。

■ 参考:2

氷川丸の三等船室

さらに1964年4月1日には、観光目的の渡航も可能となり、年1回500ドルまでの外貨持ち出しも自由化。そのため、ネットで「日本人 海外渡航(海外旅行) 歴史」と調べてみると、1964年4月1日を起点とした「海外渡航(旅行)自由化」論説が多くみられます。しかし、明治時代に氷川丸などで海外へ渡航していた日本人もいたはずです。

鎖国体制となる以前は、東南アジア各地に「日本町」が出来るなど、比較的自由に海外渡航をすることが出来たとされています。

マレーシアにて(バトゥ洞窟)

江戸時代、キリスト教の禁止を強化した3代将軍・徳川家光は、1635年に全ての日本船に海外渡航を禁じ、海外在住の日本人の帰国も禁止。つまり、日本人は海外と行き来が出来なくなりました。吉田松陰が拘禁されたのも、鎖国体制下で「海外渡航禁止」の令が続いていたからです。

■ 参考:江戸時代の鎖国体制とは

開国しても海外旅行には行けなかった?

日米修好通商条約の締結後も、ただちに日本人の海外渡航が許可されたわけではありません。

北緯38度線付近にある烏頭山統一展望台(韓国)

山口県の観光サイトでは、1863年にイギリスへ渡った長州藩の伊藤博文・井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・井上勝の5人を「長州ファイブ」として紹介していますが、当時はこれも密航にあたり、見つかれば重罪だったようです。ちなみに、伊東博文は吉田松陰が釈放後に開いた「松下村塾」で学んだうちの1人です。

烏頭山統一展望台から見た北朝鮮

幕府が「海外渡航を許可する布達(告示)」を発したのは1866年のこと。この告示により、人々は身分(士農工商)に関係なく、修学や商業を目的とする場合に限り、条約を締結していた国(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシア・ポルトガル・スイス・プロイセン)への渡航が認められるようになります。

烏頭山統一展望台付近にて 北朝鮮国民の多くは現在も海外渡航が認められていないらしい

さらに同年、船員や外国人に雇われた場合にも渡航が許可されると同時に、幕府の日本外国事務(外国奉行)は、手品師の隅田川浪五郎に第1号の旅券(パスポート)を発給。浪五郎は「日本帝国一座」という曲芸団を率いて、アメリカ経由でパリ万博へと向かいました。

■ 参考:3

海外旅券規則が定められる

1869年(=明治時代)には外務省が設置され、外国との関係をめぐる様々な事柄を管理するようになります。

外務省の資料より

当時は『旅券(パスポート)』に決まった呼び方はなく、「印章」「印鑑」「旅切手」「免状」などの名称が使用されていましたが、1878年2月に「海外旅券」へ改称されると同時に、「海外旅券規則」が定められ、旅券申請の手数料は金50銭とすること、帰国後30日以内に旅券を返納することなどがルール化されました。

■ 参考:4

■ 参考:5

飛行機から見た富士山

1868年から1909年まで、旅券の発行に際しての渡航の事由は、以下の8種類に分けられます。

①公用
②留学
③商用
④漁業(1892年より「農事・漁業」に変更、1903年に「農業漁業」へ変更)
⑤職工
⑥傭奴婢(1885年のハワイ官約移民開始から「傭」に変更、1892年から「出稼、傭」に、1896年「出稼」に変更)
⑦遊歴
⑧其他諸用(1868年~1881年までは要用(重大な用事))

「遊歴」は観光や旅行と目的が近い感じがしますが、少々ニュアンスが異なるようです。なお、1910年からは、①公用 ②修学 ③商用 ④漁業 ⑤雑 ⑥移民という6種類となります。やはり、観光・旅行で海外へ行くことは出来ませんでした

■ 参考:6

■ 参考:遊歴と観光・旅行の違い

豪華客船「タイタニック号」に日本人が乗っていた理由

ただ、渡航先で観光や旅行を楽しむことは出来たようです。

現代の豪華客船 にっぽん丸(父島にて)

1912年4月15日、当時世界最大のイギリス客船「タイタニック号」が、処女航海中に北大西洋で氷山に衝突し沈没。乗客乗員約2,200人のうち約1,500人が犠牲者となりました。「沈まない船」と宣伝されていた豪華客船の事故は、世界に大きな衝撃を与えましたが、この船に乗船し、生き残った1人の日本人がいます

■ 参考:7

現代の豪華客船 飛鳥Ⅱ(横浜にて)

鉄道院副参事だった細野正文氏は、鉄道院の第1回留学生としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いていました。2年ほどロシアに滞在し、知人のいたイギリスからタイタニック号に乗船。ニューヨーク経由で帰国する途中で事故に遭いました。

引退した豪華客船 ぱしふぃっく びいなす(那覇港にて)

タイタニック号への乗船を目的に出国は出来ませんでしたが、細野氏の場合は留学が目的だったので、豪華客船での船旅に出ることが出来たのでしょう。

■ 参考:8

戦後の海外渡航

太平洋戦争の後、日本政府は外交権を失い、自国民に旅券を発行することが出来なくなりました。

沖縄との行き来にもパスポートが必要だった

代わって旅券事務を担ったGHQは、基本方針として日本人の海外渡航を原則として認めませんでした。そうした状況でも、以下のような場合は例外的に旅券や外務大臣が発行する身分証明書、GHQによる特別許可が出されたそうです。

  • 終戦処理に従事した関係者
  • 占領地の米国軍人と結婚した「戦争花嫁」
  • 南米への移民として渡航する近親者の呼び寄せ

■ 参考:戦時中の海外渡航

那覇空港にて

旅券の発行数が年々増加するにつれて、GHQが担っていた旅券事務や発行権限は徐々に日本側へと移譲されていきます。そして、1951年11月28日、サンフランシスコ平和条約の調印および日本の主権回復に合わせて、「旅券法」が制定・公布され、日本政府は旅券発給の権限を正式に回復しました。

なお、移民や業務渡航ではなく、個人が自由に観光旅行として海外に出かけられるようになったのは、それから10年以上後の1964年のことです。一方、日本を訪れる外国人観光客、いわゆる「インバウンド」はいつから存在するのでしょうか。

■ 参考:9

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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