奄美 加計呂麻島上陸!源為朝も上陸した島を観光 日本海軍の戦跡も見学|2016 旅行記

島旅

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「2016年 加計呂麻島旅行記」をお届けします。

★前回の記事は こちら

奄美 加計呂麻島上陸

2016年8月28日、奄美大島でレンタカーを借りて、島の南端に位置する瀬戸内町・古仁屋港へやって来ました。

ここからはフェリーかけろまに乗船し、加計呂麻島へ渡ります。所要時間は30分もかからず、車を積んでも往復4,000円(人だけなら往復690円)ということで、レンタカーも積んで船に乗りました

船は生間港に到着。加計呂麻島にはもうひとつ、島の西に「瀬相港」があり、船の時間によって行き先が変わります

奄美大島が大きいので、地図で見ると小さな加計呂麻島ですが、実際はそこそこ大きな島です。生間港から世相港までは30km以上も離れています。

島全体が瀬戸内町に属する加計呂麻島。町のホームページによると、島内には30の集落があるようですが、2020年の国勢調査で人口データがあるのは24集落だけで、各集落の人口を合計すると1,080人。半数以上の方が65歳以上である一方で、島内には5つの小学校と3つの中学校があります。

高齢の方が多いこともあり、主産業は「医療、福祉」。島には徳洲会の診療所もあります。次いで「宿泊業、飲食サービス業」の従事している方が多いです。

スリ浜でシュノーケル

生間港からは島の北部にある実久海岸へ。

その途中、大島海峡へと延びる桟橋を見つけました。ここは「スリ浜」というビーチ。時間はたっぷりあるので、水着に着替えて桟橋から海へダイブ!

イソギンチャクの周辺に、映画「ファインディングニモ」で有名なクマノミを発見しました。

こちらはツノダシ、エンゼルフィッシュとも呼ばれる魚です。他にも南の島らしいカラフルな熱帯魚をたくさん見ることが出来ました。

実久海岸の無料キャンプ場で野宿

実久海岸」に到着。ここは海沿いに無料のキャンプ場があり、キャンプ場の看板に書かれた番号へ電話をすると、利用することが出来ます。

火を焚いてもOKということで、誰かが手作りした石窯を利用し、その辺で拾った木の枝を奄美大島のイオンで調達したブロックベーコンに突き刺して焼きました。

こちらは星空を写した写真。前日の奄美大島・土盛海岸に続いてこの日も満点の星空。つまり空は快晴で、夜から翌朝まで降水確率0%の天気予報でした。

旅の3日目、長い長い夜を過ごし、ようやく静かな朝がやってきました。私たちがテントに入った数時間後、なんと突然の暴風雨がやって来たのです。近くにあった大きな東屋に避難し、雨に濡れた身体を乾かすため車には戻らず、結局そのまま東屋の地面(コンクリート)で寝たのでした。

降水確率0%でも嵐がやってくる、これが島です。キャンプ場へ戻ると、強風でテントが壊れてしまっていました。近くに住んでいる島の方もやって来て、「夜、大丈夫だったかい」と、心配の声をかけられるほど激しい雨風でした。

源為朝も上陸した島を観光

お昼前の船に乗るので、それまでは加計呂麻島を車で観光します。

琉球王国統治時代から海上交通の要衝だった加計呂麻島。1908年に島嶼町村制が施行されると、加計呂麻島・与路島・請島は「鎮西村」と名付けられました。この地名は「鎮西八郎」、別名「源為朝」が由来です。

■ 参考:1

加計呂麻島にて

保元の乱(1156年)に敗れて伊豆大島へ流刑になった源為朝。島からの脱出を試みますが、潮流に流され、現在の沖縄本島北部・今帰仁村(運天港)に流れ着いたと言われています。どうやら為朝は、その途中で加計呂麻島に立ち寄り、島の娘との間に子供を作ったようです。為朝と島の娘の間に生まれた「実久三次郎」は、現在も実久神社に祀られています。

■ 参考:為朝は八丈島で自害したという説もある

ちなみに、沖縄へ流れ着いた為朝は、本島南部に移り住み、大里按司の妹との間に「尊敦」を授かりました。そして、尊敦と名乗る子が初代琉球国王・舜天王統を建てたという伝説があります。こうした伝説が残る背景にあるのは、島津氏による琉球侵攻(1609年)です。

■ 参考:琉球王国による統一前の沖縄について

島津氏は琉球を従属させる理由を必要としていました。そこで利用したのが、琉球の国王が江戸幕府の徳川氏や島津氏と同系統である「源氏」の血を引いているとする「日琉同祖論」だったそうです。

■ 参考:2

日本海軍の戦跡を見学

実久海岸から1時間以上車を走らせ、島の南部にある旧日本海軍の弾薬庫跡に到着しました。

第一次世界大戦が終わった1919年、奄美大島は小笠原諸島や台湾・澎湖島とともに、日本の太平洋上における第一線要塞に定められました。

幅約2km、深さ50~70mの穏やかな大島海峡は、1920年から1945年まで日本海軍の軍港として機能し、戦艦大和や戦艦武蔵も停泊していたそうです。

1921年、奄美大島要塞の建設がスタート。1937年に日中戦争が勃発すると、奄美大島要塞の軍備は増強され、太平洋戦争が始まる直前には、加計呂麻島にも「大島防備隊本部」が置かれました。

■ 参考:太平洋戦争までの流れ

沖縄のような地上戦は逃れた奄美の島々ですが、戦争が終わると、1953年まで米軍の統治下に置かれました。アメリカは沖縄の復興に力を入れており、米軍統治下であることから日本からの支援も受けられず、戦後の奄美は非常に苦しい時代を過ごしたとされています。

1916年に実久村が誕生し、加計呂麻島に2つの村がある状態でしたが、1956年に奄美大島の古仁屋町と西方村、鎮西村、実久村が合併し、現在の瀬戸内町が誕生しました。

.

今回はここまで。本日もありがとうございました。

★こちらもおすすめ★

コメント

タイトルとURLをコピーしました