徳之島・犬田布岬で硫黄鳥島と戦艦大和の歴史を知る~富山丸の慰霊塔も見学|2022 旅行記4

旅の思い出

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今回は「2022年 徳之島旅行記」その4をお届けします。

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徳之島と硫黄鳥島の歴史

2022年5月19日、路線バスと徒歩で徳之島最西端・犬田布岬にやって来ました。

岬にある喫茶スマイルでは、徳之島コーヒーの話だけでなく、常連の年配の方から「硫黄鳥島」のお話を聞くことが出来たのもよかったです。

硫黄鳥島は犬田布岬からさらに西へ約65km先の海上に浮かぶ島。現在は無人島ですが、1967年までは人が暮らしており、硫黄鳥島で採掘された硫黄と徳之島の農作物で、物々交換が行われていました

天気がいい時には、徳之島から硫黄鳥島の島影が見えるそうです。こちらの写真、水平線の先にうっすらと見えている島影が硫黄鳥島だと思い込んでいましたが、後で確認すると沖永良部島でした。

犬田布岬からの景色

硫黄鳥島の住所は沖縄県久米島町。沖縄県最北に位置する火山島で、歴史上一度も薩摩藩や鹿児島県に属したことはありません。絶海の孤島で水源もなく、さらに噴火も多発する硫黄鳥島に、いつから人が住んでいるのかは明らかになっていませんが、硫黄鳥島の火山活動で産出された硫黄を中国へ輸出することで、かつての琉球王国(1429年~)は交易国家として繁栄したとも言われています。

沖縄・首里城公園にて

琉球王国成立後間もなく、琉球王国の一部となった徳之島。1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻すると、琉球王国の一部となっていた奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島は薩摩藩の領地となりましたが、硫黄鳥島は琉球・首里王府の領地として残されたそうです。

飛行機から見えた徳之島・伊仙町

その背景には、薩摩藩が琉球王国を支配下に置きながら、琉球王国に中国との朝貢貿易を続けさせたことがあります。この時代も硫黄鳥島で産出された硫黄は、琉球王国の重要な朝貢品だったので、硫黄鳥島を首里王府の領地のままにしておいた方が都合がよかったのでしょう。

■ 参考:琉球王国の歴史と日本・中国の関係

犬田布岬へ向かう途中にある前泊港

冊封体制が終わり、沖縄県が設置された明治以降も、硫黄鳥島には硫黄を採掘する住民がいました。しかし、硫黄以外の産物がないため生活は困窮し、米の支給や納税義務免除(=全国唯一の無税の島)があった時代もあったそうです。

薩摩硫黄島にて 黄色い部分が硫黄

1903年(明治後期)の噴火で、当時島にいた100戸676人らは島外へ移住。硫黄鳥島には硫黄採掘要員の93名(男54人・女39人)だけが残りました。島への常駐は、鉱業権者との契約により6カ月(後に1年)交代制だったそうです。

徳之島へ向かう船から

外国産の安価な硫黄が入ってくると、鉱山経営は不振となり、戦後間もなく硫黄の採掘は終了しました。終戦後は小学校も出来たそうで、今回喫茶スマイルで聞いた物々交換の話は、この頃のことだと思われます。1959年に噴火活動が1か月続き、全島民が久米島へ移住。1967年の噴火で、硫黄採掘の従事者も撤退し、硫黄鳥島は完全な無人島となりました。

■参考1

■参考2

■参考3

名物・闘牛のルーツは琉球王国?

徳之島の名物のひとつに「闘牛」があります。

亀徳新港にて

約1000年前から、農耕・運搬、さとうきびの圧搾などに牛が用いられていたという徳之島。牛を意図的に闘わせるようになったのは700年~400年前と言われています。

■参考 4

島の歩道のタイルにも闘牛

なお、徳之島の闘牛の由来に関する明確な資料は見つかっていないそうです。奄美諸島の闘牛に関する最も古い記録は、1850~1855年に奄美大島へ流された名越左源太による「闘牛図」とされています。

徳之島で放牧される肉用牛

沖縄県、特にうるま市でも闘牛が盛んですが、「明治後期には行われていた」ということが分かっているだけで、やはりこちらも起源は明らかになっていません。明治後期は琉球王国ではなく、すでに沖縄県の時代。『闘牛は徳之島が琉球王国だった名残』とまとめたいところでしたが、その真相は不明です。

犬田布岬に戦艦大和の慰霊塔がある理由

喫茶スマイルには、戦艦大和資料展示室も併設されています。

第一次世界戦後に締結されたワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約の期限である1936年が迫る中、各国間で軍艦の建造競争が懸念されていました。日本海軍でも他国に勝る性能を有する戦艦の建造が計画され、太平洋戦争の開戦直後、1941年12月16日に就役したのが「大和」です。

こちらは犬田布岬にある戦艦大和の慰霊塔。第二次世界大戦当時、大和は世界最大の戦艦で、慰霊塔は大和の司令塔(艦橋)と同じ24mの高さとなっています。

資料展示室にて

しかし、航空母艦(空母)や航空機の台頭により、太平洋戦争における戦艦大和の戦術的価値はすでに失われていました。1943年8月にはトラック環礁へ向かうものの、参戦することなく停泊したままだったことから、「大和ホテル(ホテルのように快適だったらしい)」と揶揄されていたそうです。

■ 参考:トラック環礁と太平洋戦争の歴史

1944年11月に広島県・呉港へ帰還してからは、船を動かすための燃料が不足していたこともあり、しばらく待機していた戦艦大和ですが、1945年4月5日、海上特攻隊としての出撃命令(菊水作戦)が下りました。目的地は米軍が上陸した直後の沖縄本島です。

大和の動きは間もなく米軍に察知され、4月7日、多数の米軍艦載機による攻撃を受け、北緯30度43分17秒・東経128度04分00秒(一般的には鹿児島県・坊ノ岬沖と言われる)で沈没。乗組員3,332人のうち、生き残ったのはわずか276人でした。

大和の沈没場所と徳之島は距離が離れていますが、「徳之島西二十海里洋上に轟沈シテ巨體(きょたい)四裂ス」という生存者の証言から、1968年、犬田布岬に慰霊塔が建てられました。

それから現在まで、毎年の慰霊祭は犬田布岬で行われています。沈没した大和が海底で発見されたのは、潜水調査が行なわれた1982年のことです。

戦時中の輸送船・富山丸の慰霊塔も見学

犬田布岬の喫茶スマイルで「徳之島コーヒー」「硫黄鳥島」「戦艦大和」のお話しを伺い、非常に価値ある時間を過ごすことが出来ました。

バスの時間が迫って来たので、今度は犬田布岬からバス停を目指して30分ほど歩きます。どうやらこの辺りは「とうばる」と呼ばれる集落のようです。

バス停「岬入口」に到着。16時5分発 亀津行きのバスも定刻通りやって来ました。岬入口から亀徳新港までの料金は800円です。

今回は1日路線バスを利用し、約2,500円で徳之島を反時計回りに1周することが出来ました。途中歩く場所もありましたが、レンタカーよりもかなりお得です。

約30分で亀徳新港に到着。時刻は16時半過ぎ、ちょうど沖縄からやって来た鹿児島行きのフェリー「クイーンコーラル プラス」が、入港作業をしているところでした。

この日最後に訪れたのは、亀徳新港から歩いて30分ほどの場所にある「なごみの岬公園」。ここには徳田虎雄顕正記念館だけでなく、1944年6月末に徳之島亀徳沖で沈没した輸送船「富山丸」の慰霊塔があります。

■ 参考:徳之島と徳田氏の関係について

太平洋戦争後半の1944年3月15日、南西諸島防衛のため、沖縄本島(首里城)に司令部を置く第32軍が編成されました。この時すでに劣勢に立たされていた日本軍。1944年6月11日からは、当時日本が占領していたサイパンに米軍が攻撃を仕掛けていました。

1944年6月27日、鹿児島湾を出港した富山丸に課された任務は、防衛強化が急がれる第32軍の増援部隊を輸送すること。しかし出港から2日後、徳之島沖で米軍の潜水艦「スタージョン」の攻撃を受け沈没。犠牲者は3,700人以上と、戦艦大和の沈没よりも多くの方が犠牲となりました。また、沖縄本島の飛行場建設現場では人手が不足し、工事に遅れが生じるなどの影響もあったそうです。

1944年7月、絶対国防圏の一角だったサイパンが陥落し、米軍が南西諸島へ侵攻する可能性が高まると、政府はすぐさま南西諸島の老幼婦女子10万人(九州へ8万人・台湾へ2万人)の疎開を決定。徳之島の学童や住民らは、1944年9月末に奄美大島の古仁屋へ移動し、疎開船「武州丸」で九州本土を目指しました。

しかし、武州丸もまた米潜水艦の攻撃を受けて、トカラ列島・中之島沖で沈没。徳之島の住民は計148人が犠牲になりました。なごみの岬公園には武州丸の慰霊碑も置かれています。

戦艦大和、富山丸、武州丸、そして対馬丸など、沖縄ー鹿児島間の海で沈没した船の歴史を知ると、改めて絶望的な状況で沖縄戦が始まったことが分かります。また、この地域の海上を行く船でゆったりした時間を過ごせるのは、とてもありがたいことだなと思うのでした。

■ 参考:対馬丸の慰霊碑は悪石島にある

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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