東京湾に浮かぶラピュタの島・猿島を歩く!要塞化された無人島の歴史をご紹介|2018 旅行記

島旅

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今回は「2018年 猿島旅行記」をお届けします。

東京湾に浮かぶラピュタの島

2018年5月、神奈川県横須賀沖に浮かぶ無人島・猿島に上陸しました。

島へ渡る船が出るのは、京急線・横須賀中央駅から徒歩15分ほどの場所にある三笠港。

島は三笠港からはっきり見えるほど近い場所にあり、乗船時間は約10分。揺れる心配はほとんどありません。船は1時間間隔で運航されており、費用(乗船券+猿島公園入園料)もお手頃。予約の必要はなく、気軽に乗船することが出来ます

この日は土曜日ということもあり、朝一番の船から多くの方が乗船していました。猿島にはBBQ施設や売店があり、夏には海水浴を楽しむことも出来ますが、どちらかというと猿島はレジャーではなく、散策を目的に訪れる観光客が多いと思われます。

朝一番は人のいない写真を撮ることが出来る

その理由がこちら!緑色の苔と木々に覆われたレンガ造りの建物とブロックの壁。ネットでは「ラピュタの島」と紹介されていることが多いです。

猿島を歩く

猿島は東京湾で最大の自然島ですが、島の周囲はわずか約1.6km。島内には散策路が整備されているので、迷う心配はありません。

1800年代以降、植民地拡大を目指す欧米列強のアジア進出が盛んになると、当時鎖国をしていた日本周辺でも、ロシアが北海道に接近したり、イギリス船が長崎や浦賀に来航。緊張が高まったこと受け、江戸幕府は1825年には異国船打払令(=外国船を撃退する法律)を出しました。

東京湾の防備強化のため、1847年に幕府は猿島島内3か所に台場(砲台を置く台となる場所)と15の大砲を設置。なお、1853年に東京湾へやって来たアメリカ東インド艦隊司令長官・ペリーの黒船に、大砲が放たれることはありませんでした。

要塞化された無人島の歴史

1855年の安政江戸地震で猿島は大きな被害を受け、江戸幕府は猿島の台場を放棄しました。

明治政府は軍備をさらに強化するため、東京湾(猿島)に要塞を建設。猿島砲台は1881年に起工し、1884 年に竣工。猿島要塞は陸軍の管理下に置かれ、東京湾内湾への敵艦船の侵入阻止、及び横須賀・長浦両軍港の防御を任務としました。

しかし、1923年の関東大震災で被災したことに加えて、第一次世界大戦で戦闘機が登場すると戦争の形態も変わり、陸軍は猿島を放棄。その後は海軍が猿島を整備し、1941年には戦闘機を撃ち落とすための高射砲陣地などが設置されました。

猿島の砲台は実戦で用いられることなく、終戦を迎え、現在も島には当時の遺構が多く残されています。戦後は当時の大蔵省(現:財務省)が島を管理していましたが、1947年に横須賀市が大蔵省から土地を借り受け、海上市民公園の運営を開始。1970年代には年間10万人を超える観光客が猿島を訪れたそうです。

こちらも猿島の戦跡

その後は紆余曲折を経て、2007年に猿島は国から横須賀市へ無償譲与されました。島を歩いて1周するのには1時間もかかりません。恐らく都心から最も近く、手軽に探検気分を味わえる無人島です。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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