沖縄南部のグスク巡り!尚巴志の登場と琉球王国成立までの沖縄の歴史を知る旅|2020 沖縄旅行記

南国日記~沖縄移住の記録~

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今回は「2020年 沖縄南部 グスク巡りの旅」の様子をお届けします。

沖縄南部のグスク巡り

ニッポン城めぐり」というアプリには、主に戦国時代、日本全国に実在した3,000の城がGoogle Map上に埋め込まれており、城巡りついでにスタンプラリーを楽しむことが出来ます。

実際にその場所に行って「城攻め」をすると、マップ上のお城マークがオレンジ色に変わります。 今回はこのアプリを利用し、沖縄本島南部に点在する城(グスク)を巡りました。

■参考:沖縄の城(グスク)とは

曖昧な部分や、伝説的な言い伝えが多い沖縄の歴史ですが、玉城グスクは今の沖縄を作ったとされるアマミキヨさんが築いたという伝説があります。これが事実であれば、沖縄で一番最初に作られたグスクは南城市にある玉城グスクです。

城壁の保存状態がよく、国の史跡にも指定されています。琉球の聖地巡礼「東御廻り」の最後の拝所にもなっており、歴代の琉球国王の方々も参拝に訪れていたそうです。

玉城城が位置するのは標高180mの小高い丘の上。絶景を見渡すことが出来ることから、別名「天空の城」とも言われています。そして、写真の左側に見えている平べったい島が、アマミキヨさんが降り立った地・久高島です。

ちなみにこちらは、早朝に玉城城グスクへ行って撮影した写真。朝陽に照らされた久高島は神秘的で神々しい雰囲気に包まれています。

玉城グスクの西の守り城(玉城按司の三男・糸数按司の居城)として築かれたのが糸数グスク

琉球石灰岩が積み上げられた城壁は、野面積みと切石積みが用いられており、最も高いところで約6mにもなる本島南部最大級のグスクです。築城年代ははっきりと分かっておらず、14世紀前半と推定されています。

戦争で一部を破壊されながら、現在も立派な状態で残されており、史跡名勝天然記念物にも指定されています。その一方で、周辺は雑草が伸び放題。案内の看板もありません。もちろん見学は無料です。

玉城グスクは絶景、糸数グスクは迫力(デカい)が見どころだとすると、その両方を満たしているのが沖縄本島の南端にある具志川城跡です。

具志川城跡があるのは海へ突き出た、標高約17mの海食崖。15世紀初め、久米島を支配していた真金声按司が築城したと言われています。

海岸から高さがあるため、船で届いた荷物などは、こちらの「ヒーフチミー(火吹き穴)」と呼ばれる、地面から海まで続く穴を通じて運搬されたそうです。

そして何より、3方を海に囲まれているため、絶景が広がります。グスクと青い海が両方ある、沖縄らしさ全開のスポットなので、個人的には具志川城跡が一番おすすめのグスクです。

こちらも見学は無料ですが、『ハブに注意』の看板があるので、念のため草むらを歩くときは注意が必要です。

琉球王国成立以前の沖縄の歴史

グスク巡りを通じて、琉球王国成立以前の沖縄の歴史を知ることも出来ます。まずご紹介するのは佐敷上グスク

琉球を統一した尚巴志と、その父・尚思招がこのグスクを居城にしていたと伝えられています。

階段を登った先にあるのが「つきしろの宮」。ここには第一尚氏王統の歴代王である佐銘川大主・尚思招・尚巴志・尚忠・尚思達・尚金福・尚泰久・尚徳らが合祀されています。

■参考:佐銘川大主が築いた伊是名城跡へ

玉城グスクと同様、「東御廻り」の拝所にもなっており、国道331号線から佐敷上グスクへ向かう道には大きな鳥居が設置されています。

尚巴志の登場

尚巴志は父・思紹から佐敷按司の地位を譲られると、当時の南山で大きな勢力を誇っていた島添大里按司を打倒し、島添大里グスクへ移動しました(1402年)。ということで、続いて向かうのは島添大里グスクです。

14世紀頃、島添大里按司によって築城され、その面積は20,000㎡以上という、県内有数の規模を誇るグスクです。しかし、それらしき石積みなどは見当たらず、草っ原が広がります。

恐らくこの辺が城跡であると思われます。島添大里按司の『島添』には「島々を支配する」という意味があり、大里・佐敷・知念・玉城地域を支配下に置き、中国・明王朝とも盛んに貿易を行っていたそうです。

尚巴志が首里城へ拠点を移したのが1406年と言われているので、ここにいたのは約4年ですが、その後も離宮のような形で利用されました。

見えているのは中城湾と遠くの勝連半島、三山時代に「中山」と呼ばれた地域です。今回巡っている沖縄本島南部は「南山」と呼ばれ、『1429年、中山王・尚巴志が南山王・他魯毎を倒し琉球統一を果たした』という歴史が定説となっています。

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ここで2つの疑問が生じます。

・南山王・他魯毎はどこの誰?
・佐敷出身の尚巴志がなぜ中山の王に?

南山王国の成立

この疑問を探るべくやって来たのが、糸満市にある南山城跡です。

高嶺グスクとも呼ばれており、大半が糸満市立高嶺小学校の敷地内にあたるそうですが、自由に見学することは出来ます。

1415年、中国・明朝の3代皇帝・永楽帝の承認を受けて、南山の王に即位した他魯毎は、1429年に尚巴志が琉球を統一するまでの14年間、この地に南山王国の拠点を置いたと言われています。

この辺りの歴史は、ネットを調べてもほとんど情報が出てきません。Wikipediaを参考にすると、他魯毎の父は第3代南山王・汪応祖(おうおうそ)、さらにその父が第2代南山王・汪英紫(おうえいじ)で、汪英紫は初代南山国王・承察度の叔父にあたるとされています。

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資料によると、初代南山国王・承察度の「承(発音:chen)」は沖縄本島南端地域「喜屋武」を指し、「察度(発音:cha du)」には琉球語で領主の意味があるそうです。つまり、承察度は『喜屋武の領主』という意味になり、喜屋武から勢力を北上させ、高嶺グスクに到達したことが分かります。

承察度は1380年から中国の皇帝に貢物を送り、1385年に南山王として銀印を与えられました。この時点で高嶺グスク(南山城跡)が南山の拠点だったとすると、佐敷出身の尚巴志はまず、南山を落としてから、中山や北山へ勢力を広げていくのが自然なような気がします。

Wikipediaの情報を頼ると、承察度の居城は島添大里グスク、第2代・汪英紫の居城は島尻大里グスク(=高嶺グスク)となっています。汪英紫の死去した年と尚巴志が島添大里グスクを滅ぼした年が、どちらも1402年と一致していることから、もともと南山の拠点は島添大里グスクで、尚巴志に攻められた後に高嶺グスクへ移り、王統が続いたと考えることも出来ます。

八重瀬町の資料に、汪英紫が八重瀬グスクを築城したという歴史も見つけました。八重瀬グスクは八重瀬公園内にあるので、そちらにも行ってみます。

こちらは公園の駐車場からの景色。かりゆし58の「アンマー」という曲のPVにもこの景色が登場します。この日はうっすらと慶良間諸島の島影も見えていました。

「本殿跡」と書かれた看板がありますが、石垣などグスクの面影は残っていません。

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またまたWikipediaの情報によると、汪英紫は南山王に即位する前、八重瀬按司の地位にあり、1388年以降は自らも明の皇帝に貢物を送っていた(王として認めてもらうよう依頼していた)そうです。これが本当なら、当時南山を治めていた承察度のことを、汪英紫はよく思っていなかったことが伺えます。

琉球王国防衛の拠点 三重城

時代は少し先に進みますが、1546年に尚清王が築いた三重城(那覇市)も、沖縄の歴史上重要なスポットです。

海沿いに位置しており、築城当時、朝鮮半島や中国大陸沿岸で活動していた「倭寇」と呼ばれる海賊から、琉球王国の拠点・那覇を防衛するためのとしての役割を果たしました。

Wikipediaによると、かつては大砲も設置されており、1609年の薩摩による琉球侵攻の際には、薩摩の艦隊を追い払うことにも成功したそうです。

もともとは海にぽつんと浮かぶような形で、本土とは4つの橋で連なる長い土手で繋がっていたようですが、那覇の人口増加に対応するため、1733年に埋め立て工事が行われ、周辺が宅地として整備され始めました。

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1879年、琉球処分によって沖縄県が設置されると、埋め立てはさらに進み、終戦後まで行われた複数回の工事によって現在に至ります。三重城の鳥居の背後にそびえるのはロワジールホテルです。

歴史が経つにつれて砦としての役割は薄れ、大切な人の船出を見送る岬となりました。グスクの石垣などはありませんが、綺麗に整備されており、御嶽が置かれています。

グスク(城)の定義も曖昧?

歴史やグスクの定義が曖昧であるせいか、「これがグスクなのか?」「場所はどこだ?」というようなスポットもいくつかありました。

まずは知念グスク。GoogleMapで「知念グスク」を目的地と設定し、その案内通りに到着したのがこちら。

看板もなく、明らかにここではなさそうですが、アプリ上では「城攻め」も出来てしまいます。

GoogleMapの通りに行くと、知念城跡の駐車場に行くことは出来ませんが、地図の「カフェくるくま」の横に「P」とあり、ここを目指すと知念城跡の駐車場に到着します。

知念グスクの築城年代は不明らしいですが、17世紀末に改築され、知念地区の役所として使われていた時期もあったそうです。

「火の神」を祀る小さな祠があったり、敷地内に「友利御嶽」があったりすることから、東御廻りの拝所のひとつにもなっています。

同様に、天久グスクもGoogleMapを頼りにすると到着することが出来ません。

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グスクのすぐそばまでやって来たようですが…

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この住宅街の中にグスクがあるとは思えません。周囲を何周かしても見当たらず… 改めて「城アプリ」を確認すると、GoogleMapとは全く別の場所に「天久城」が表示されていました。

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到着しました。どうやらここが天久グスクのようですが、案内板などはありません。

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石碑には天龍大御神と書かれています。天久グスクは調べてみても情報が少なく、そもそもここがグスクであったという情報も見つからず… しかし、アプリではここがグスクとして指定されています。

具志頭城は案内板はあり、「沖縄の古城跡の中でも大きいほうで、~~連郭式の城である」と書かれていますが、グスクの面影は残っていません。ちなみに、「具志頭」と書いて「ぐしちゃん」と読みます。

垣花城跡も同じで、行ってみるとそこにあるのは案内板のみ。

ただ、案内板の背後に広がるうっそうとした木々の中に踏み分け道があったので、少し入ってみると、石垣らしきものを確認することが出来ました。

どうやら上まで登っていくと、周辺の集落を見渡すことが出来たようです。

こちらは豊見城市の長嶺城跡。GoogleMapではこの場所が表示されていますが、それらしきものは見当たらず、工事業者の事務所になっていました。

アプリ上でもこの場所が長嶺城跡となっており、城攻めをすることも出来たので、これ以上グスクの面影を探すことはしませんでした。

豊見城グスクは、沖縄空手会館の敷地内にあるようです。例によって、GoogleMapに記された場所へ行ってみると…

古代遺跡のような建造物がありましたが、これは「亀甲墓」という沖縄のお墓(沖縄のお墓のノーマル形がこれです)。石碑にも「与那城門中 外間家の墓」と書かれていました。

周囲を探してもグスクらしきものは見当たりませんでしたが、城攻めには成功しました。そもそも沖縄では、グスク(城)の定義も曖昧なのかもしれません。

城マークがオレンジ色になっている場所が、今回実際に私が足を運んだ場所です。地味と思われがちななグスク巡りですが、アプリを使うことで、ゲームのように楽しむことが出来ました。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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