普天間基地を見る!基地移設問題を解説 県民は辺野古に反対しているのか|2020 沖縄旅行記

南国日記~沖縄移住の記録~

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今回は「沖縄戦の戦跡を巡る旅」その3をお届けします。

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嘉数高地から普天間基地を見る

「道の駅かでな」の次にやってきたのは、宜野湾市にある嘉数高台公園です。

沖縄本島への無血上陸を果たした米軍でしたが、1945年4月6日、ここ嘉数高地で待ち構えていた日本軍と衝突。火力で圧倒的に劣る日本軍は、米軍の戦車に体当たりするなどの肉弾戦を展開しましたが、約2週間の戦闘の末、前田高地(浦添市)へ退きました。

こちらは戦時中の弾痕の跡が残された壁。もともと宜野湾市内の別の場所にあったものが、こちらで保存・展示されています。

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こちらは日本軍が陣地を構えるために掘った軍専用の人工壕。こうした壕をはじめ、嘉数高地の陣地構築には、周辺の集落から多くの人々が駆り出されました。

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トーチカ

米軍戦史にも「嘉数地区で失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘としては最大のもの」と記されるほど、熾烈な戦いが繰り広げられ、嘉数区の住民のおよそ半分(53%)が戦闘に巻き込まれて犠牲となりました。

現在は公園として整備されている嘉数高地。この展望台からは米海兵隊基地・普天間飛行場が見えるため、多くの観光客や修学旅行生が訪れています。

基地移設問題を解説

こちらは北飛行場や中飛行場、小禄飛行場等とは異なり、米軍が嘉数高地の戦いを終えた後に建設した飛行場です。戦争が終わり、宜野湾に戻ってきた住民は「え、飛行場出来てんじゃん。家無くなってるんだけど…」というリアクションだったはず。

民家だけでなく、村役場や学校、戦前の主産業であったサトウキビ畑なども無くなっていたそうです。1950年7月時点で、宜野湾村(現宜野湾市)の面積の50%以上が軍用地でした。その後は軍用地返還や、西海岸地域の埋め立てによる市域の拡大により、現在は宜野湾市の面積のうち約3割が米軍基地となっています。

周辺には家々が密集しており、世界一危険な基地と言われています。2004年には、写真右手に小さく映っている黄色い建物(沖縄国際大学)に、米軍のヘリが墜落する事故もありました。普天間基地を名護市辺野古にある米軍基地キャンプ・シュワブへ移設することは、沖縄における基地問題のメイントピックと言えるでしょう。

ずらっと並ぶオスプレイ

日米両政府・沖縄県知事・名護市の同意のもとで、普天間基地の辺野古移設が決まったのは2006年。しかし2009年、普天間基地の「最低でも県外移設」を宣言していた鳩山由紀夫氏を首相とする民主党政権が誕生したため、辺野古への移設は一旦白紙となります。

沖縄戦を指揮した米軍の司令官 バックナー中将慰霊碑にて

県外移設という方法が提案されたことで、辺野古移設へ反対する声が大きくなる一方、県外の移設先などについて具体的な案は用意されておらず、2010年に日米政府は改めて辺野古移設で合意。鳩山首相は辞任したのでした。

普天間基地の辺野古移設

こちらはある日の辺野古の様子。警備の方々による「人間の壁」が作られています。抗議活動をする人々はほとんどいませんでしたが、これはメディアが来ないから。テレビの取材等が来る時に、多くの人(サクラを含む)が集まるそうです。

そして、沖合の船が集まっている場所が、辺野古にある米軍基地「キャンプ・シュワブ」。船とダンプカーで運び込まれた土砂によって海が埋め立てられて、基地の拡張が行われています。

ダンプカーが行列を作るこの場所(本部港付近)では、海底の土が採掘され、その土がダンプカーで辺野古へと運ばれています。この写真をよく見ると、ダンプカーが現場へ入るのを阻止するため、おじちゃんたちがゆっくりと横断歩道を歩いています。

カヤックで海底の土砂採掘を阻止する人たち

普天間から辺野古へ米軍基地(飛行場)を移しても、結局沖縄に米軍基地が多く置かれていることに変わりないというのが、移設反対派の主な主張です。

辺野古の海の様子

確かに沖縄戦では、日本軍が沖縄に作った飛行場を確保することが、米軍が沖縄へ上陸する理由となりました。一方アフガニスタンのように、米軍がいることで、周辺の地域に対して一定の抑止力が働いていることも否定できないでしょう。

辺野古の海の様子

また、日本の離島あるあるですが、公共工事は脆弱な島の経済に、外部の資金(税金)を流すきっかけとなります。辺野古で工事をしている間、土砂を運ぶダンプカーは、沖縄を走り続けるのです。

沖縄県民は辺野古に反対しているのか

沖縄の日常

それから今も、沖縄県は辺野古移設に反対の意見を示しており、県庁のホームページにも「辺野古移設に反対する理由」というページが用意されています。一方で、興味深いのは2019年2月には、辺野古への移設を問うた県民投票の結果です。

沖縄県の資料より

こちらは沖縄県が公表している県民投票の結果。今後も県はこのデータを用いて、「7割以上の県民が反対している」と主張すると思われます。

■ 参考:沖縄の闇をまとめてみた

『投票していない人』『無効投票』を足すと、反対の人の割合はこのように変化します。沖縄県の資料には「圧倒的多数の方が辺野古埋め立てに反対」という一文がありますが、この数字で圧倒的多数と言えるのかは微妙です。

こちらは県民投票前、私の家のポストに投函されていたチラシ。県民投票が辺野古反対を前提しているのは明らかです。また、工事はすでに進んでいるので、賛成またはどちらでもいいと思っている人は、わざわざ投票に行く必要がありません。

ただ、県民投票のチラシに載っていたこの部分は正しいと思います。小学校のすぐそばに米軍基地があり、飛行機やヘリコプターが窓を揺らすほどの爆音を轟かせています。

国勢調査より

宜野湾市の人口は20年間右肩上がりですが、普天間に限ってみると減少傾向です。これが米軍基地の影響かどうかまでは分かりません。何かと「米軍基地」が議論になり、メディア報道などにも偏りが生まれたり、県民を二分したりするのが、沖縄の基地問題であると個人的には思います。

■ 参考:沖縄のメディアは偏っている?

ちなみに、沖縄本島の道路沿いには、『求む軍用地』という看板が多く見られます。沖縄の米軍基地は、日本政府が地主から民有地を借り上げ、日本とアメリカが管理している場合が多いです。例えば、そうした土地の運用をしている人たちは、沖縄から米軍基地が無くなることを望んではいないでしょう。

■ 参考:軍用地ビジネスについて

沖縄戦の経過

嘉数高台公園の次にやって来たのは、浦添城跡公園(浦添市)です。

沖縄戦当時、この辺り一帯は「前田高地」と呼ばれ、日本軍と米軍が激しい戦闘を繰り広げました。城壁は沖縄戦でほとんど破壊されたため、戦後の発掘調査の後、復元されたものです。

米軍はこの地を「ハクソーリッジ(のこぎりの丘)」と呼んだそうです。ハクソーリッジでの戦いはアメリカで映画になり、2017年にはアカデミー賞にもノミネートされました。

嘉数高地を突破された日本軍は、前田高地で再び米軍を迎え撃ちます。4月25日から米軍の攻撃が始まり、沖縄戦の中でも有数の激戦になったそうです。「ありったけの地獄をひとつにまとめた(戦い)」とも表現されています。

米軍は5月6日に前田高地を制圧。日本軍の司令部がある首里城までは残り約5km。いよいよ万事休すとなった日本軍が、首里城をかけて米軍に抵抗した地がシュガーローフです。

1945年5月12日から18日にかけて、日米両軍が激しく衝突した地には現在、配水池が設置されています。周辺は「那覇新都心」と呼ばれ、マンションなどが立ち、ここが多くの犠牲者を出した激戦地であることは全く感じられません。きっと住んでいる人も、歴史を知っている人は少ないでしょう。

飛行機から見た那覇市街地

首里城が目前に迫った1945年5月下旬。日本軍が組織的な抵抗終了したとされる6月23日までは、まだ1カ月あります。司令部では「ある決断」がなされ、沖縄での戦いはまだ続くのでした。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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