満点の星空?無料キャンプ場を利用!奄美大島から車で加計呂麻島へ 戦跡も見学|2016 旅行記2

旅の思い出

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「2016年 奄美大島旅行記」その2をお届けします。

★前回の記事★

奄美大島から車で加計呂麻島へ

奄美大島の旅2日目。レンタカーを借りて島の南端・瀬戸内町までやって来ました。

午後はこちらの船加計呂麻島へ。所要時間は30分もかからず、車を積んでも往復4000円(人だけなら往復690円)ということで、レンタカーも積んで船に乗りました

ノープランなので、大きな奄美大島ではどこへ行けばいいか分からず。GoogleMapを眺めていて、偶然見つけたのが加計呂麻島でした。船に車を積んでも安いだけでなく、この島には無料のキャンプ場があります。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_0083-1024x768.jpg です

加計呂麻島上陸!島には港が2つあり、こちらは瀬相港の前に置かれている大きな高瀬貝のモニュメント。高瀬貝は貝ボタンで、最も使用されている貝です。

ただ、実際に到着したのは瀬相港よりも南にあるもうひとつの港・生間港。風や波によって港が変わるわけではなく、船の時間によって行き先が変わります

生間港からは島の北部にある実久海岸へ。対岸に見えているのは奄美大島。島と島の間を流れる「大島海峡」に沿いは、両島ともリアス式海岸となっており、200種ものサンゴが生息しているそうです。

スリ浜でニモに出会う

その大島海峡へと延びる桟橋を見つけました。ここは「スリ浜」というビーチ。時間はたっぷりあるので、水着に着替え、桟橋から海へダイブ!

イソギンチャクの周辺にクマノミを発見。

午前中のウミガメに続き、ニモに出会うことが出来ました。

こちらはツノダシ。エンゼルフィッシュとも呼ばれる魚です。他にも、南の島らしいカラフルな熱帯魚をたくさん見ることが出来ました。

実久海岸の無料キャンプ場を利用

ということで「実久海岸」に到着。ここは海沿いに無料のキャンプ場があり、看板に書かれた番号へ電話をすると、利用することが出来ます。

火を焚いてもOKとのこと。誰かが手作りした石窯が残っていたので、その辺で拾った木の枝をブロックベーコンに突き刺して焼きました。

こちらは打製石器を作る友人。奄美大島のイオンで、食材は色々と調達することが出来ましたが、調理道具は無いので、石を削って包丁代わりにしたりして、工夫しながら過ごします。

これで2日連続シャワーなし。なかなか原始的な旅をしています。

満天の星空からの暴風雨

見えにくいですが、こちらは星空を写した写真。前日の奄美大島・土盛海岸に続いて、この日も満点の星空。つまり空は快晴。夜から翌朝まで、降水確率0%の天気予報でした。

旅の3日目。長い長い夜を超え、ようやく静かな朝がやってきました。私たちがテントに入った数時間後、まさかの土砂降り雨と暴風で全員が目を覚まし、荷物だけ持って、近くにあった大きな東屋に避難。雨に濡れた身体を乾かすため、車には戻らず、結局そのまま東屋の地面(コンクリート)で寝たのです。

朝になりキャンプ場へ戻ると、強い風の影響を受けて、テントが壊れてしまっていました

近くに住んでいる島の方もやってきて、「夜、大丈夫だったかい」と、心配の声をかけられるほど激しい雨風でした。降水確率0%でも嵐がやってくる、これが島なのです。

★参考:島から出れなくなることもある★ 

海面が少し波立っています。奄美大島であと3泊(野宿)するので、奄美大島に戻ったら、新しいテントを買わなくてはなりません。

加計呂麻島の戦跡を見学する

お昼前の船に乗るので、それまでは加計呂麻島を巡ります。

奄美大島が大きいため、地図で見ると小さく見える加計呂麻島ですが、なかなか大きい横長の島です。

島の北部から、南部にある戦跡を目指して車を走らせます。激しいアップダウン、かつうねうね道、かつしっかり寝られなかった影響で、友人の1人は完全に車酔いでやられました

大きなガジュマルの木を見つけました。奄美大島の北にあるトカラ列島の小宝島と悪石島に、生物地理学な境界線があります。その影響を受けて、奄美大島や加計呂麻島には、ハブも生息しているので、草むらで野宿をする時は注意が必要です。

1時間以上かけて、旧日本海軍が使用していた弾薬庫跡に到着しました。

第一次世界大戦が終わった1919年、小笠原諸島や台湾・澎湖島とともに、太平洋上の第一線要塞として策定された奄美大島。

幅約2km、深さ50~70mの穏やかな大島海峡は、1920年から1945年まで日本海軍の軍港として用いられるようになります。戦艦大和や戦艦武蔵もここに停泊していたそうです。

★参考:戦艦大和について★

1921年、奄美大島要塞の建設が始まりました。1937年に日中戦争が勃発すると、奄美大島要塞の軍備は増強され、太平洋戦争が始まる直前には、加計呂麻島にも「大島防備隊本部」が置かれました。

奄美の島々は、沖縄のような地上戦を逃れましたが、戦争が終わると、1953年まで米軍の統治下に置かれました。アメリカは沖縄の復興に力を入れており、一方で、統治下であることから日本からの支援も受けられず、戦後の奄美は非常に苦しい時代を過ごしたとされています。

加計呂麻島の観光はここまで。島を1周する時間はなかったので、港へ戻り、船に乗りました。さらば加計呂麻島。

ちなみに、奄美大島に戻り、まず向かったのはホームセンター「ニシムタ」。無事新しいテントをゲットしたので、野宿旅も続けられそうです。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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