沖縄のグスク(城)とは何か?世界遺産 座喜味跡・勝連城・中城城を巡る旅|2020 沖縄旅行記

南国日記~沖縄移住の記録~

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今回は沖縄本島中部にある「城(グスク)」を巡りながら、沖縄の歴史をご紹介します。

沖縄のグスク(城)とは何か

2000年に沖縄の「琉球王国のグスクおよび関連遺産」が世界文化遺産へ登録されました。

沖縄には「グスク(城)」と呼ばれる建造物が、各地に点在しており、有名な首里城もそのひとつ。 グスクの出現は、沖縄で農業が本格的に始まった12世紀から13世紀とみられていますが、その実態については「聖域説」「集落説」「城郭説」などがあり、はっきりとは分かっていないようです。

14世紀頃の沖縄本島には、北山・中山・南山という3つの勢力が存在していたと言われています。

1429年、中山の王・尚巴志が南山の王・他魯毎(たるみい)を倒したことで、沖縄(琉球)統一を果たし、琉球王国が成立。首里城は国王とその家族が居住し、いわゆる「王宮」 となりました。さらに、琉球王府の本部・王国の祭祀を運営する拠点・文化芸術の中心など、様々な役割を果たしていたそうです。

しかし、首里城についても、いつ建設されたのかは分かっていません。ちなみに、2019年10月末の火災によって、首里城の正殿などが全焼してしまいましたが、これが5度目の全焼で、火災以前にあった建物は最近復元されたばかりものでした。

沖縄の歴史は、尚巴志による統一以前の時代を「三山時代」、グスクの出現(12世紀~13世紀)から三山時代(14世紀)までの間を「グスク時代」と区分する場合が多いです。また、グスク時代より前を「貝塚時代」と言い、狩猟採集中心の生活が営まれていたようですが、貝塚時代については、調べても情報があまり出てきません。

グスクを巡る旅

沖縄には全部で200から300のグスクがあると言われていますが、世界文化遺産に登録されたのは5つだけ。今回はその中から、本島中部(=中山)にある世界遺産のグスク、座喜味・勝連・中城を原付で巡りました

護佐丸によって築かれた座喜味城跡

まずやってきたのは読谷村にある座喜味城跡。こちらは無料で見学することが出来ます。

座喜味城跡を築いたのは読谷村の按司(≒その土地の権力者・豪族)だった護佐丸。座喜味城を築く前、護佐丸は中山の王・尚巴志とともに今帰仁城【北山の拠点】を攻め落とし、今帰仁城で北山の監守を務めていました。それから数年後、国王に対抗する勢力を監視する拠点として、新たに座喜味城築城を尚巴志が護佐丸に命じたそうです。

グスクの外観は、日本の一般的な「お城」とは異なり、石積みの要塞のようになっています。琉球石灰岩で出来た城壁は「あいかた積み」という手法が用いられており、これは当時の築城技術が優れていたことを表しているそうです。

2つの石の間に、「くさび石」を嚙み合わせた『アーチ石門』が、座喜味城跡の特徴らしい… これは他のグスクには見られない構造らしいですが、いかんせん地味ということもあり、私にはその貴重さが分かりませんでした。

座喜味城跡での出土品は、15世紀から16世紀の中国製の青磁と陶器が多いそうです。

座喜味城跡は、標高120mほどの丘陵地にあり、読谷村のほぼ全域を眺望することが出来ます。沖縄戦では日本軍の高射砲陣地が、戦後は米軍のレーダー基地が設置されたという歴史からも、軍事上重要な地形であることが伺えます。

こちらはインバウンドの団体旅行。ただし、平日だったこともあり、見学している人は他に全然いませんでした。

阿麻和利の時代に繁栄した勝連城跡

座喜味城跡の次にやって来たのは、うるま市にある勝連城跡。こちらも入場は無料です。

勝連城跡もまた、前方に見えている小高い丘の上にあります。城跡の崖下からは貝塚が発見され、古くからこの地で人々が生活していたと考えられています。

また城跡内からは、中国の陶磁器や貨幣、東南アジアの陶磁器類、朝鮮の陶磁器、大和系の瓦、熱帯に住むオウムの骨などが見つかっており、交易が盛んに行われていた様子も伺えます。当時の勝連は「きむたか(肝高)」と表現され、京都や鎌倉に例えられるほど繁栄していたそうです。

スマホで体験する勝連城跡。QRコードを読み込むと、城が使われていた当時の風景を360°パノラマで楽しむことが出来ます。

勝連の繁栄を作り上げたとされるのが、10代城主・阿麻和利です。民衆の心を掴み、若くして城主となり、沖縄最古の歌謡集・おもろさうしの中では、「千年もこの勝連をおさめよ、勝連の名高き王」と称えられています。

阿麻和利の出生や生い立ちについての詳細は分かっていないそうですが、この時すでに琉球王国は成立しており、勝連をはじめとした地方の繁栄は王府にとって脅威でした。

1439年に尚巴志が逝去し、尚忠が三代目の王になると、座喜味にいた護佐丸が中城の按司に任命されました。これには阿麻和利をはじめ、中山で勢力を強めていた按司を牽制し、首里(琉球王府)を防衛する狙いがあったと見られています。

1454年に王位に就いた六代目・尚泰久は、自分の娘・百度踏揚(右)を阿麻和利(左)に嫁がせました。後にこの根回しが、琉球王国の存続に大きな影響を与えることとなります。

琉球王府を打倒し、天下統ーを目指した阿麻和利はまず、1458年に護佐丸のいる中城城を攻めました。

護佐丸が引っ越した中城城跡

ということで、続いて向かうのは中城城跡です。

勝連から中城までは約14km。大きな川などの地理的な難所もなく、グスク時代や琉球王国初期に展開された有力者たちの争いは、近い距離感で行われていたことが伺えます。

そして中城城跡もやはり、前方に見えている丘の上にあります。

到着しました。「料金所」という看板があるように、中城城跡は今回巡った中で唯一有料のグスクで、大人1人400円がかかります。

入場券をゲットしたら、このカートで丘の上まで運んでもらえます。しかしもちろん、このサービスが出来たのは最近のことで、阿麻和利は中秋の宴の最中に攻撃を仕掛けたと伝えられています。

中城城跡のジオラマ

護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれる戦いで護佐丸は自害。その勢いのまま、阿麻和利は首里を目指しましたが、妻の百度踏揚(国王・尚泰久の娘)と大城賢雄(百度踏揚の付き人)に天下統一の野望を知られてしまい、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされました。

中城城跡からの景色

尚泰久が逝去すると、尚徳が7代目の王として即位しました。暴君として知られる尚徳王。琉球王国の情勢は悪くなったことに加えて、彼自身も29歳で急死してしまいます。そのタイミングで、伊是名島出身・金丸によるクーデターが起こり、琉球王国成立から約63年続いた尚氏一族による王朝は滅亡しました。

中城城跡には散策ルートがあるので、その順に巡っていきます。

中城城跡は世界遺産であると同時に、日本100名城のひとつにも数えられています。築城年代ははっきりと分かっていないようですが、14世紀後半、先中城按司が数世代にわたって築いたと言われています。

こちらが一の郭。もともとはここに正殿があり、1879年の琉球処分以降は中城村役場が置かれていましたが、沖縄戦で焼失しました。

こちらは二の郭。一の郭と二の郭では「布積み(別名:豆腐積み)」という、一段ごとに高さを揃えてブロック状に積み上げる技法が用いられています。

こちらは三の郭。三の郭と北の郭は、築城の天才と評された護佐丸によって増築されたと伝えられています。

(くるわ)」とは、一定の広さを持った区画のことで、この区画ごとに防御陣地や建造物を建てていくそうです。

こちらは裏門。あのペリーさんも中城城に訪れ、このアーチ門を「エジプト式」と評したと言われています。

ぐるっと歩いて、30分ほどで入口の近くまで戻ってきました。

帰り際の看板には、護佐丸さんからのメッセージが書かれていました。沖縄・琉球の原点に触れる旅に、グスクを巡りはいかが。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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