シュガーローフから第32軍司令部壕(首里城)へ。日本軍の南部撤退|戦跡巡り旅行記その5

南国日記~沖縄移住の記録~

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「沖縄戦の戦跡を巡る旅」その5をお届けします。

★前回の記事★

シュガーローフでの激戦

ハクソーリッジ(前田高地)を突破した米軍は、日本軍の司令部がある「首里城」を目前にして、沖縄戦で最大とも言われる激戦を強いられます。

その地の名前は「シュガーローフ」。

1945年5月12日から18日にかけて、首里城をかけた日本軍と米軍がぶつかりました。

現在、シュガーローフには配水池が設置されています。

新都心」とも言われ、周辺は再開発によってマンションなどが立ち、ここが激戦地であることは全く感じられません。

きっとここに住んでいる人も、歴史を知っている人は少ないでしょう。

シュガーローフの次はいよいよ首里城です。

1945年5月末。沖縄戦が終わったとされる6月23日まで、まだ1カ月あります。

米軍が迫る首里城の司令部ではこの時、「ある決断」がなされ、沖縄での戦いはまだ続くのでした。

首里城跡に到達

日本の戦国時代を考えると分かりやすいですが、戦国大名は城を築き、そこを拠点に戦いを繰り広げました。多くの場合、城が敵に攻められると、殿が自ら命を絶って戦いは終わります。

沖縄戦でも、沖縄本島に上陸した米軍は「飛行場獲得」という目的を果たし、戦いを終わらせるため首里城を目指しました。

首里城に到着しました。こちらの石碑には「首里城跡」と書かれています。それは首里城が古くから、焼失と再建を繰り返しているから。

沖縄戦によって4度目の焼失となりました。

2019年の焼失は5度目。戦後復興の過程で再建されたこともあり、人々の悲しみは大きなものになりました。

戦後は琉球大学がこの場所に建てられたことから、「琉球大学の碑」も建てられています。

今では沖縄を代表する観光地であり、世界文化遺産にも登録されている首里城。

園比屋武御嶽のそばに「第32軍司令部壕」があり、中に入ることは出来ませんが、入口の様子は覗くことが出来ます。

南部撤退と住民の犠牲

首里城の地下部分におよそ1kmの壕が掘られ、1000人以上の兵士がいたとされています。ただ、当時の様子など、詳しいことは分かっていません。

これは、崩落の危険などから内部の調査があまり行われていないから。戦後75年を迎え、公開と保存を求める声が高まっています。

1945年5月末、日本軍は司令部を沖縄本島の南端・摩文仁に移す「南部撤退」を実行します。

南部は住民が多く避難していた場所でした。

「まさか沖縄で戦争が行われるなんて」
「もし戦争になっても日本軍が守ってくれる」

こうした理由から、住民の県外疎開はなかなか進まなかったそうです。

沖縄戦では約3カ月で、日米合わせて20万人以上の方が亡くなりました。ここまで多くの犠牲者が出た理由のひとつは『住民が巻き込まれた』から。

沖縄戦が終わるまでの残り1カ月、住民がいる南部が激戦の場となり、沖縄戦における住民の犠牲者のおよそ半数が、この時期に亡くなっています。

.

今回はここまで。本日もありがとうございました。

★続きはこちら★

.

【SNS本日の結果】
Twitter 1136人(前日比+1) 
Instagram 2288人(前日比+9)
Youtube 34355回 (前日比+244)

~移住2年目 212日目終了~

コメント

タイトルとURLをコピーしました