小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」の噴火で発生した軽石が、沖縄周辺に多く押し寄せています。
こちらは2021年10月下旬、沖縄本島北部の海岸で撮影した動画です。沖縄を象徴する「白砂のビーチ」が、灰色になっています。ところで、小笠原諸島がどこの都道府県に属しているかご存知でしょうか。

正解は東京都です。沖縄県ではありません。そこで今回は、沖縄と小笠原諸島の違いをご紹介します。
沖縄と小笠原諸島の場所

こちらは海上保安庁「日本の領海等概念図 」。本州の南に様々な島が書かれています。日本最西端「与那国島」・尖閣諸島・沖大東島は沖縄県、日本最東端「南鳥島」・日本最南端「沖ノ鳥島」・南硫黄島は小笠原村です。
沖縄県へのアクセス

沖縄は九州と台湾の間に位置する琉球弧に属し、東西1,000km、南北400kmの広大な海域に点在する島々で構成されています。160の島のうち47の島に人が住み、本土から沖縄へのアクセスは、基本的に沖縄本島・宮古島・石垣島へ飛ぶ飛行機です。

2020年度の那覇空港の乗降客数は、羽田空港に次ぐ全国2位となっており、飛行機で沖縄に訪れる人が多いことが分かります。また、鹿児島と那覇・本部の間には、ほとんど毎日フェリーが運航しています。
さらに、2019年に那覇クルーズターミナルに入港したクルーズ船の数は260回で、日本一の寄港回数となっています。
★参考:沖縄~鹿児島のフェリーについて★
★参考:那覇クルーズターミナルの様子★

2021年4月現在の人口は以下の通りです。
- 沖縄本島 :135万人
- 石垣島 :5万5千人
- 宮古島 :5万6千人
- 本島周辺離島:1万9千人
小笠原諸島には船でしか行けない

東京都心から南へ約1000km、太平洋に浮かぶ約30の島々が小笠原諸島です。その島の全てが東京都小笠原村に属しており、日本の排他的経済水域の約3割が小笠原村となっています。一般人が上陸出来る島は父島と母島のみ。父島は千代田区の2倍余りの面積、母島は北区とほぼ同じ面積で、2021年4月現在、父島に約2100人、母島に約450人が住んでいます。

沖縄と小笠原の大きな違いは、島へのアクセスです。沖縄へは飛行機が一般的ですが、小笠原の場合は6日に1便、片道24時間の定期船「おがさわら丸」のみ。飛行機で行く方法はありません。
社会人になると、6日間というスケジュールを抑えるのはなかなか難しいことです。さらに、長期休みが取りやすい時期は予約が殺到し、乗船券を確保するのが困難です。
★参考:予約が取れない定期船おがさわら丸★
大陸と繋がっていた沖縄、海洋島の小笠原
沖縄の島々の成り立ち
こちらは沖縄本島最北端「辺戸岬」から、沖縄本島の南部にある「那覇空港」までを映した動画です。動画の前半、沖縄本島北部から中部にかけては緑が多く山っぽい雰囲気ですが、那覇空港が近づくにつれて、平地が多くなり建物が密集しています。

沖縄県のホームページによると、最終氷期には琉球諸島が台湾を経て、大陸とつながっていたとされています。
約160万年前にトカラギャップ(悪石島と小宝島間)が成立し、海面変動に伴い島間の陸続きや孤立(特に沖縄諸島と八重山諸島の間のケラマ海裂が顕著)が起こりました。大東諸島は隆起環礁で約50万年前に赤道付近で形成され、フィリピン海プレートにのって北上してきたと考えられています。 他にも、竹富島のように、サンゴ礁の隆起によって出来ている島もあります。
また、日本には111の活火山がありますが、沖縄県には「硫黄鳥島(沖縄県最北端)」と「西表島北北東海底火山」の2つの火山しかありません。 今から約100年前の1924年10月31日、西表島の北北東約20kmの沖合で海底噴火が起った際にも、翌日には付近の海面一帯に多量の軽石が押し寄せ、軽石はその後、黒潮の流れに乗って日本各地に漂着したようです。
世界自然遺産、小笠原諸島

小笠原諸島は過去に大陸と地続きになったことがない「海洋島」です。
東京都のホームページによると、約4,800万年前、フィリピン海プレートの下に太平洋プレートが沈み込みを始め、プレート下のマグマが引き起こす海底火山活動により父島列島と聟(むこ)島列島が誕生しました。その後、マグマの発生する位置はより深い西側へと移動し、約4,400万年前に母島列島が誕生しました。現在もプレートの沈み込みによる火山活動は続いており、火山列島(硫黄列島)のひとつ「硫黄島」は、2014年、小笠原諸島最大の面積の島になりました。

今回の軽石の発生源「福徳丘ノ場」は南硫黄島の近くにある海底火山で、2021年8月13日 日本国内で戦後最大級の規模と見られる噴火を起こしました。
東洋のガラパゴス
また「西之島」という島が、活発な噴火を繰り返していることは有名です。

西之島では「ワモンゴキブリ」が繁殖しており、環境省が対応を検討しているそうです。
西之島は誕生してから一度も陸と繋がったことがないため、これから生態系が作られていく様子を観察することが出来る、貴重なフィールドとなっています。 しかし、 噴火前に何らかの理由で島に棲息していたゴキブリが、噴火でも絶滅せず、むしろ増えているせいで、恐らく調査に支障が出るのでしょう。

海にポツンと陸地が出来ると、鳥が飛んで来たり、植物の種が流れ着いたりして、自然が作られていきます。棲みついた生き物たちは天敵がいないため、独自の進化を遂げ、やがて固有種が多い生態系となります。

小笠原諸島は2011年、その独自の生態系が評価され、世界自然遺産に登録されました。「東洋のガラパゴス」とも言われています。一般人が住んでいる父島・母島にも、自然保護のため、人の立ち入りが制限されているエリアがあります。
沖縄は中国・東南アジア、小笠原はハワイ
「沖縄と小笠原の違い」については、以前の旅先で聞いた話が印象的です。
「沖縄は中国・東南アジア、小笠原はハワイの雰囲気」
この雰囲気の違いは、それぞれの島が辿ってきた歴史が影響しています。
中国の影響を受けた琉球王国

沖縄県は1879年に設置されました。それ以前の約450年の沖縄は、国王が支配する「琉球王国時代」、さらにそれ以前は、有力な豪族が各地に点在する「グスク時代」と呼ばれています。
沖縄は、グスク時代末期から琉球王国の終焉まで、約500年にわたって中国(明・清)の冊封体制下にありました。冊封体制とは、 中国の皇帝が周辺の君主や首長に王や侯などの爵位を与え交易を認め、藩属国として中国に従属させることです。

琉球は優れた中国商品を輸入し、それらを近隣諸国へ輸出すると同時に、中国へ持ちこむための商品を日本や東南アジアから調達するなど、東アジアの中継貿易国となっていました。これにより、沖縄には日本・中国・東南アジアの影響を受けることなります。
1609年、琉球王国は薩摩藩の侵攻を受けました。これにより、沖縄・八重山は薩摩の支配下となりましたが、国家としては存続し、変わらず中国を宗主国としながら冊封も続きました。

今の沖縄文化にも中国に由来するものは多いです。年中行事は旧暦によって行われ、シーサーや石敢當、亀甲墓など、日常風景の中にも中国から伝わったものが見られます。
小笠原に最初に住み着いたのは欧米人
小笠原諸島は1830年まで無人島でした。英語圏では無人(ブニン)が訛って「Bonin(ボニン) Islands」と表記されます。

最初に小笠原に住んだのは欧米人やハワイの先住民らの20数人。その後1876年、明治政府により小笠原が日本領となり、本土や伊豆諸島から人々が移住するようになりました。
熱帯気候を活かした果樹や冬野菜の栽培が盛んになり、漁業ではカツオ、マグロ漁に加え、捕鯨やサンゴ漁などを中心に栄え、戦前の人口は7千人余まで増えました。

- 小笠原の歴史は200年ほどしかない
- ルーツは欧米人
この2つが沖縄との大きな違いです。沖縄では「港川原人」の化石も発掘されており、はるか昔から人が住んでいたと考えられています。そしてもうひとつ、沖縄と小笠原を語る上で「戦争の歴史」は欠かせません。
太平洋戦争の歴史
小笠原諸島も沖縄も、今から75年以上前の太平洋戦争で、激しい地上戦が行われました。
地上戦前夜

1941年12月から始まった太平洋戦争ですが、戦争はしばらく、日本本土から離れた場所で行われていました。何度か本土への空襲はありましたが、日本で最初に米軍の本格的な空襲・艦砲射撃を受けたのは小笠原諸島です。

1944年6月15日、米軍がサイパン島に上陸したその日、小笠原にも空襲が襲いました。この空襲を機に、軍属等として残された825人を除く、全島民6,886人が本土へ強制疎開させられました。

1944年7月、サイパン島が米軍の手に落ちると、沖縄の老幼婦女と学童に沖縄県外への疎開命令が出されましたが、数十万人の県民は沖縄に残ったまま。そして、1944年10月10日、沖縄に初めて空襲が襲い、那覇市の90%が焼失しました。
地上戦
小笠原は全島民が疎開した一方で、沖縄は住民が残ったままでした。結果として、沖縄では約3か月の地上戦で、9万4千人が犠牲となりました。

米軍が沖縄本島や硫黄島を狙ったのは、日本本土攻撃に向けた「飛行場の獲得」です。
沖縄本島には、日本軍が作った飛行場が複数ありました。小笠原諸島については、父島の要塞化が進んでおり、飛行場の滑走路の距離も短いことから、硫黄島がターゲットとなりました。日本軍は、本土防衛のため、沖縄と硫黄島で時間を稼ぎ、米軍を消耗させる必要がありました。

1945年2月16日、約2万人の日本軍守備隊が待ち構える硫黄島に、米海約6万1千人が上陸作戦を開始しました。米軍は当初、硫黄島を5日間で占領する計画だったようですが、日本軍の組織的抵抗は1カ月以上続きました。1945年3月26日、硫黄島が米軍の手に落ちました。
日本軍守備隊は捕虜となった約1000人を除いてほぼ全滅。亡くなった日本兵の中には100人を超える沖縄出身者もいたとされています。
一方、米軍側の死傷者も約2万9千人に達し、太平洋戦争で連合軍が反撃に転じて以降、米軍死傷者が日本軍を上回った唯一の戦いとなりました。
★参考:小笠原の戦跡★

硫黄島が米軍の手に落ちたのと同じ日、1945年3月26日に慶良間諸島へ上陸。4月1日には沖縄本島に上陸し、約3か月にわたって激しい戦いが行われました。日本軍・米軍・住民を合わせると、沖縄戦では20万人以上が犠牲となりました。今の中高生にあたる年代の、沖縄の学生も「学徒隊」として戦争で戦いました。
沖縄戦は太平洋戦争の中で「住民を巻き込んだ、日本で唯一の地上戦」です。
★参考:沖縄の戦跡★
戦後復興の違い
沖縄と小笠原は戦後、米軍の統治下に置かれましたが、その後の歴史も大きく異なります。
人口ゼロからのスタート

米軍の攻撃が本格化する前に、全島民が疎開した父島は、いわば人口ゼロからのスタート。米軍統治下の島へ帰ることが出来たのは、欧米系にルーツを持つ島民約130名のみ。このとき帰島した方の証言によると、以前あった建物はほとんど壊され、生活の仕方も米国式になり、島の様子は激変していたそうです。
★参考:欧米系島民の方の証言★


当時小笠原にあったのはラドフォード提督学校、小学校7年生まで。今の中学2年生から高校生の5年間はグアムの学校に通っていたそうです。
1968年、小笠原諸島は日本に返還されました。
それに伴い旧島民の帰島も可能になりましたが、長期間のアメリカ統治により経済活動基盤等は崩壊しており、村政が確立されたのは1979年のことでした。

占領下の小笠原では、大多数の島民が追放されていた上、アメリカ軍も軍施設以外の開発に手を付けず、小笠原の自然が放置された状態になりました。その間に戦前に破壊された島の生態系なども回復。返還直後には島の大部分が国立公園の指定を受け、開発が制限されました。
結果として2011年、小笠原諸島は世界自然遺産に登録にされ、エコツーリズムをコアとする観光関連業が発達しています。

2018年に返還50周年を迎えましたが、硫黄島は島全体が自衛隊の基地となっており、一般住民の立ち入りが認められていません。
米軍の支配下で住民が生活

沖縄の場合は、戦後直後から米軍の支配下で住民が生活する形となりました。車は右側通行、お金はドル、標識もマイル表示など、アメリカ文化を強く受けるようになります。沖縄には、こうした時代を知る人が多いです。小笠原の場合、本土復帰に伴って島へ渡った人が多いので、戦時中から統治下時代を知る人は非常に少ないのです。
移住者が作る小笠原の観光

沖縄には世界的にも評価が高い沖縄科学技術大学院大学や、国立の琉球大学など、大学や専門学校がいくつかあり、義務教育から就職まで、沖縄で完結させることが可能です。そのため、旅行以外で沖縄県外に出たことがないという人も多いです。
私もそうですが、県外から沖縄に移住したという人は、思っていたよりも少ない印象です。沖縄には「金城さん」「比嘉さん」など、沖縄ならではの名字があり、そうした名字の方が多い一方で、「佐藤さん」「田中さん」などと出会うことはほとんどありません。

戦前は7000人ほどが暮らしていた小笠原諸島。
戦後に島へ戻ることが出来たのは、欧米系の島民約130名だけでした。1968年の本土復帰によって、欧米系以外の島民も島へ帰ることが出来るようになりました。しかし…
- 東京から南へ約1000kmに浮かぶ絶海の孤島
- 船でしか行くことが出来ない
(初代定期船「椿丸」の所要時間は片道44時間) - 戦後から20年以上が経ち、疎開先での生活基盤が出来ている
といった状況で、島へ戻る人はわずかでした。

1970年代に「離島ブーム」が起こり、小笠原にもに観光客が訪れるようになります。そして、そうした観光客の中から、小笠原へ移住する人たちが出てきます。
今では島民のほとんどが元観光客の移住者。
旅行で島を訪れて、小笠原に魅了されて移住し、観光に携わっている人が多いです。小笠原に住むことは、今も簡単なことではありません。仕事はもちろんですが、島の大部分が国立公園になっているため、家を建てるハードルが高いです。空き家など、小笠原の情報を常に探しておく必要があります。

また、観光客にとっても、5泊6日のスケジュールが必要で、船で片道24時間かかる小笠原に行くことは、沖縄へ行くよりも遥かにハードルが高いです。
「休みが取れたから小笠原へ行こう」というよりも、「小笠原に行くために、どうやって休みを取ろう」というように、自分の都合を小笠原に合わせる必要があります。小笠原を訪れるのは、そこまでしても、小笠原に行きたいという観光客です。

小笠原も高校までは島にありますが、移住者の人が多いということで、高校卒業後は子どもを島の外へ出す文化があります。それでも島に残りたいという人や、島に戻ってきた人、そして移住をした人… 小笠原には「小笠原が好き」で住んでいる人が多いのです(これは沖縄と割と大きな違いです)。
観光客の目線を理解した島民が、やっとの想いで小笠原にやってきた観光客に、それぞれが好きな小笠原を届けることで、また新しいファンを生み出しています。
小笠原は沖縄と異なり、リゾートホテルがありません。それでも観光客は来るのです。
★参考:予約が取れない定期船「おがさわら丸」★
沖縄県も小笠原諸島も観光に携わる方が多いです。年間収入ランキングを見ると沖縄県は全国最下位。一方で、小笠原村は全国1741市区町村の中で48位(2020年)。離島の中ではトップです。
「公務員の方が多い」「最低賃金が東京都基準」などの理由もありますが、小笠原は観光を中心にしながら、しっかり稼ぐことができています。
★参考:小笠原とアドベンチャーツーリズム★
移住者には、島の外に家族や親戚がいるので、いざという時は島を去ることが出来ます。例えば、小笠原には大きな病院がありません。始まりと終わりがない島とも言われています。沖縄の場合は、親戚も皆さん沖縄にいる場合が多いです。沖縄ならではの苗字が多いのも、それが理由であると考えられます。
私と小笠原、沖縄
このように、歴史と地理的な条件(アクセス)によって、南の島でも、沖縄と小笠原で全く異なる生活文化となっています。

私は大学3年の時に初めて小笠原諸島に足を運んでから、すっかり島に魅了されてしまい、卒論のテーマも小笠原、大学が終わり社会人になる直前の春休みも、約2か月小笠原に滞在していました。
2018年12月に沖縄に移住しましたが、その直前にも小笠原に足を運んでいます。
「そんなに小笠原が好きなら住めばいいのに」と思われるかもしれません。実際、沖縄と小笠原、どっちが好きかと聞かれたら「小笠原」と即答します。理由はやはり「人」、あとは「雰囲気」でしょうか。何となく落ち着くというか、しっくり来るものがあります。
これは小笠原に行ったことがある人にしか、伝わらない感覚だと思います。
★参考:ちなみに父島派です★
しかし、小笠原に住んでしまうと、私の趣味である「旅」に出ることが難しくなります。沖縄は那覇空港から日本全国へ飛行機が飛んでいるので、旅好きには利便性がとてもいいのです。
また、沖縄本島は生活もしやすいです。何でもあります。「沖縄から出たい」と思ったことは、移住してから3年間、1度もありません。
★参考:人口増加の地域もある★
沖縄と小笠原の接点はほとんどありません。今回、軽石がきっかけですが、こうした記事を作ることが出来たのはよかったなと思います。
ということで、今回は沖縄と小笠原で実際に暮らして、さらに両地域をそれなり調べた私の視点から、沖縄と小笠原の違いを解説してみました。
最後までありがとうございました。
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