那覇からマルエーフェリー乗船!国境を超えた沖縄ー鹿児島航路の歴史|2022旅行記1

南国日記~沖縄移住の記録~

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今回は「沖縄から日帰り与論島の旅」その1をお届けします。

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那覇からマルエーフェリー乗船

これまで何度か沖縄から与論島に足を運んでいますが、日帰りで上陸するのは初めてです。

また、いつもは本部港まで原付で行ってから船に乗っていましたが、すでに原付はラストランを終えていたので、今回は那覇から乗船します。事前にネットで予約をしていたので、運賃は割引されて3,350円。

乗船する船は、那覇を朝7時に出港するマルエーフェリー・波之上。案内板には「残席わずか」という張り紙もありました。どうやら混雑しているようです。

マルエーフェリー ホームページより

GW初日ということもあるはずですが、この船が混雑している理由は恐らくこちら。沖縄祖国復帰50周年記念事業の一環で行われる「沖縄返還要求運動海上集会の再現」に伴い、フェリー波之上が航路上で3回周るというのです。

このイベントは本部港出港後、沖縄本島と与論島の間の海上で行われます。そのため、与論島から徳之島・亀徳港までは入出港時間が遅れるようです。

乗船すると船内にもポスターがありました。海上集会以外にも、この日の与論島では様々なイベントが行われるようですが、参加する時間はありません。今回私は与論島で下船し、すぐ船に乗って沖縄へ戻ります。与論島での滞在時間は2時間もありません。

新しいお土産を見つけました。マルエーフェリー船内売店限定で販売されている黒糖焼酎がありました。値段も350円、見た目もいいので、いいお土産だと思います。

朝7時、那覇港出港。ここから2時間かけて、次の寄港地・本部港へ向かいます。特別運航便ですが、いつも通り、船に向かって手を振る人の姿はありません。ここまで塩対応の港は、全国的にも珍しいような気がします。

朝9時、本部港に到着。

与論島で行われるイベントに参加すると思われる、国頭村の代表団も乗船してきました。与論島と国頭村は、昔から昔から結びつきが強い地域として知られています。

流石に本部港では見送りの人たちがいました。

定刻は9時20分ですが、少し遅れて出港しました。私にとって、ここからが今回のメインです。フェリー波之上は、どこで・どのように、海の上を3周するのでしょうか。

沖縄の本土復帰50周年

2022年は、沖縄が日本本土に復帰してから50年を迎える年でした。

1945年4月1日から、米軍が沖縄本島に上陸し、約3か月にわたって日本軍との激しい戦争が行われました。1945年6月23日、日本軍の司令官が自決をしたところから、沖縄は実質的にアメリカの支配下に置かれることとなりました。

太平洋戦争が終わると、日本全体がGHQ(連合国軍総司令部)の支配下に置かれました。1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効されると、日本の主権が回復した一方で、その中に小笠原諸島・トカラ列島・奄美群島・沖縄県は含まれず、正式にアメリカの施政下に置かれることと決まりました。

石垣島・730交差点 車が左側通行に変わったことを記念する碑

沖縄がアメリカの支配下にあったことは有名ですが、トカラ列島・奄美群島もそうであったことは、まだまだ知られていない印象を受けます。それは恐らく、トカラ列島・奄美群島がアメリカの支配下に置かれた期間は、沖縄よりも短いからです。

★参考:小笠原もアメリカ支配下にありました★

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辺戸岬にある祖国復帰闘争碑

トカラ列島は1952年2月10日、奄美群島は1953年12月25日に日本本土への復帰を果たしました。そこから19年間、奄美群島最南端の島・与論島と沖縄本島最北端・辺戸岬の間に通る「北緯27度線」が、当時の日本の国境になったのです。

本部港を出港したフェリー波之上はこれから、かつての国境を通過します。そしてこの日は2022年4月28日、サンフランシスコ平和条約が締結されてから、ちょうど70年の日でした。

今回の海上集会は北緯27度付近で行われるようです。この船がその周辺を3周するのは、国境を自由に行き出来ることを意味するパフォーマンスになるのでしょう。

沖縄ー鹿児島航路の歴史

船は瀬底島の沖を通過。見えている大きな建物はヒルトン沖縄瀬底リゾートです。

こちらは美ら海水族館がある海洋博公園。1975年から76年にかけて、沖縄の本土復帰記念事業として、この場所で行われたのが沖縄国際海洋博覧会。多くの観光客が訪れることを見込んで、ホテルの建設や沖縄自動車道の整備など、今に続く沖縄観光の基礎が築かれました。

令和2年版観光要覧より

1947年、パン・アメリカン航空の東京-那覇便が就航。1954年には、JALも国際線の定期便として東京-那覇便を就航させ、今では沖縄を訪れる観光客のほとんどが飛行機を利用しています。令和元年、沖縄には約1千万人の観光客が訪れましたが、フェリーを利用して沖縄までやって来た人は2万7千人ほどと、かなり少ないです。

マリックスラインの船内にて

沖縄と本土を結ぶ旅客船・貨客船は現在、マルエーフェリーとマリックスラインの2社が運航。この2社はいずれも、沖縄から奄美群島の島々に寄港し、鹿児島まで向かいます。本土と沖縄を繋ぐというよりも、奄美群島の経済を支える生活航路として活躍しています。

一方で、国道58号線の海上区間にも指定されており、確かに沖縄と本土を繋ぐ役割も果たしています。自転車やバイクで日本1周をする方、皆さん必ずお世話になる船のはずです

午前7時に那覇を出港。沖縄北部・本部港を経由し、鹿児島県に入ると奄美群島の有人島(与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島)へ寄港。

★参考:沖縄から奄美大島までの船旅の様子★

奄美大島出港後は、トカラ列島の島々を全て通過して、翌朝8時半に鹿児島へ到着します。なお、フェリー波之上のみ、出港4日前の時点で「下船予約が1人以上いる」場合、屋久島にも寄港します。

鹿児島ー沖縄間は2社が2船ずつ、交互に船を出すことで、毎日運航されています。2社とも時刻表・運賃は同じ。どういった経緯でこうした運航形態になったのか調べてみましたが、詳しいことは分かりませんでした。

★参考:同じ航路に2社存在する事例★

マルエーフェリー

歴史が古いのは、今回私が乗船しているマルエーフェリー。会社名の通り「○+A」のファンネルマークが特徴です。

マルエーフェリーは奄美群島が本土復帰を果たした1953年12月、大島運輸株式会社として鹿児島から与論島間の運航を開始。沖縄航路は1957年8月に開設されました。

沖縄が本土復帰を果たした翌月、1972年6月には「ひかり」と「あまみ丸」が就航。現在は「フェリー波之上」と「フェリーあけぼの」の2船が活躍しています。

マリックスライン

こちらのファンネルマークは「M」

マリックスラインの前身・鹿児島郵船株式会社は1959年12月に創業。当時の親会社・照国海運株式会社は、マルエーフェリーと同じく、奄美群島が本土復帰を果たした1953年12月から鹿児島~与論航路の運航を行っており、この航路が鹿児島郵船に承継されたのでした。

マルエーフェリーが米軍統治下の沖縄・那覇に就航していた一方で、マリックスラインが沖縄まで航路を延長したのは1972年12月(沖縄の本土復帰後)でした。そしてその3年後、オイルショックなどの影響により親会社・ 照国海運が倒産し、鹿児島郵船も事実上の倒産に至りました。

照国海運が倒産に至った原因は、オイルショックだけではないとされています。1970年、照国海運の子会社として日本高速フェリーが設立され、それから2年後に誕生した船が、今に続く「さんふらわあ」です。高度経済成長や大阪万博開催という波に乗って、1972年2月から1974年秋までに、計5隻のさんふらわあが就航しました。

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さらに、鹿児島ー与論航路でも新造船「クイーンコーラル(初代)」が就航。こうした投資に対し、需要は伸び悩み、十分な回収が出来なかったそうです。沖縄で行われた海洋博の来場者数も、当初の見込み450万人よりも、100万人近く少ない結果となりました。

その後、紆余曲折を経て、さんふらわあは商船三井グループへ、鹿児島~沖縄航路はマリックスライン(会社更生法による更生手続きを終えた鹿児島郵船の新社名)に引き継がれました。

クイーンコーラル8は2021年11月に引退

現在は「クイーンコーラルプラス」と「クイーンコーラルクロス」の2船が活躍しています。

琉球海運

マルエーフェリー・マリックスライン、この2社よりも早く、鹿児島と沖縄を船で結んでいたのが琉球海運です。

第二次世界大戦終了直後、米軍統治下の沖縄において官民共同出資により設立された船会社で、マルエーフェリーが那覇に就航するより5年早く、1952年2月に那覇~名瀬~鹿児島間の旅客定期航路を開設。沖縄が本土復帰を果たすと、鹿児島駅を接続駅として本土ー那覇の国鉄小荷物連絡輸送も開始しました。

しかし、マリックスラインと同様の理由で、1976年10月に倒産。1995年に更生手続きを終え、現在は沖縄県や自治体、日本郵船、琉球銀行、沖縄電力などが主要株主となり、旅客の輸送は行っていません。

かつての国境を越える

つまり、沖縄が米軍統治下にある時代から本土と沖縄を結ぶ船会社で、倒産していないのはマルエーフェリーだけということになります。沖縄に運ぶ物資はたくさんある一方で、沖縄から運び出されるものがないため、帰りは空で船を動かさなければならないなど、沖縄と本土を繋ぐ物流は色々と難しいようです。

船は沖縄本島西海岸を北上。本島最北端の辺戸岬も見えてきました。米軍統治下の沖縄を訪れるため際は、総理府発行の身分証明書が必要で、ビザなどの手続きも複雑だったようです。詳細な流れは不明ですが、船が那覇港に到着すると、入国手続きがあったものと思われます。

★参考:辺戸岬を観光★

また1958年夏、沖縄の高校から初めて甲子園に出場した首里高校の選手たちが、植物防疫法により甲子園の土を沖縄へ持ち帰ることが出来ず、土を海に捨てたというのは有名な話です。

もちろん今は、出入国手続きや円からドルへの換金などを必要とせず、船の出港当日でも空席があれば、ふらっと沖縄と鹿児島を行き来することが出来ます。でもこれは、当たり前のことではないということです。

そんな歴史に思いを馳せ、海を眺めていると、遠くに小さな船が集まっているのが見えました。どうやらここで、海上集会の再現が行われるようです。

そして、私が乗るこの大きな船もその周辺を3周するといいますが、果たして船がどんな動きをするのか、私にはまだ全く想像がついていませんでした。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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