沖縄 文化観光の課題~まずは琉球と中国の歴史関係を知ること|観光アイデア教科書 Vol.29

観光アイデアノート

今回のテーマは「沖縄の文化観光」です。沖縄には日本本土とは異なる独自の文化があることは有名ですが、その背景にある歴史はあまり知られていません。

沖縄における文化観光の課題

沖縄の特色ある文化・芸能等を観光資源として活用することを目的として、沖縄県は2011年度に「沖縄県文化観光戦略」を策定しました。

沖縄県観光要覧より 旅行内容

それから10年以上経ちましたが、沖縄の「文化」をテーマにした観光は人気がありません。県が文化観光戦略を出した翌年から、沖縄県の観光要覧にも「伝統工芸・芸能体験」という項目が登場。旅行中に文化観光を楽しんでいる観光客の割合の測定が始まりましたが、その数字は右肩下がりとなっています。

★参考:沖縄旅行のキーワードはリゾート★

ネットで「沖縄 文化 観光」と調べてみても、おすすめスポット(場所)を紹介するばかり。文化の背景にある歴史などは全く紹介されておらず、これでは旅行者側も文化の受け取り方が分かりません。

一方で、観光の提供者側も沖縄文化のルーツ深く理解していない可能性が高いです。「琉球王国」という時代があり、その名残が今も残っているだけでは足りません。現在の沖縄文化に大きな影響を与えている琉球王国と中国。基礎知識として琉球がどんな歴史を歩んできたかを知ることで、文化の面白さや価値は見えてきます。

琉球王国と冊封体制

ただ、琉球の歴史は少々複雑で、記録も少ないため、正確にルーツを知るのはやや難しい作業です。

1368年、中国に明国が成立すると、自国を中心とした国際秩序の構築を目指しました…という感じで、いきなり中国の歴史が絡んできます。沖縄を知るには世界史の基礎知識が必要で、これは沖縄戦が起きた背景を知るときも同様です。

★参考:沖縄戦が起こるまでの流れ★

沖縄には「チャンプルー文化」という言葉もありますが、立地に起因する国際性がこそが沖縄のルーツといえるでしょう。

明国が成立した当時の東アジアでは、各国の商人たちによる交易が盛んに行われていましたが、明は朝貢(貢物を献上する)して忠誠を誓う国に対してのみ交易を認める「冊封体制」をとりました。これにより、民間商船は対外交易が出来なくなりました(海禁政策)。

1372年、明の皇帝・洪武帝が三山時代の琉球に使節団を送り、中山の王・察度に朝貢するよう求めました。察度はこれを受け入れ、琉球は1870年代までの約500年間、冊封体制に組み込まれることとなりました。

★参考:三山時代の沖縄を知る★

中国の狙いは属国を周囲に配置することで、安全保障を図ること。属国もまた冊封体制に参加することで、周囲の国々や国内に対して権威を高めることが出来るので、安全保障上の観点からメリットがあったのです。

琉球王国成立以前は、北山・中山・南山のそれぞれが冊封体制に組み込まれていました。1429年に中山が琉球を統一し、明の皇帝もこれを認め、対外的にも琉球王国が成立したのでした。つまり、中国あっての琉球王国だったのです。

琉球王国は優れた中国商品を大量に輸入し、それらを近隣諸国へ輸出。同時に中国へ持ち込むための商品を日本や東南アジアから調達するなど、東アジアの中継貿易国として重要な役割を果たしました。冊封体制の恩恵を大いに受けていたのです。

一方日本は、第3代将軍足利義満が冊封体制に入りましたが、4代将軍足利義持は継続せず。その後、6代足利義教の時に再開されましたが、その後冊封体制は続かなかったようです。日本にとってはあまりメリットがなかったのでしょう。

中国から琉球に持ち込まれた文化

琉球王国で新しい国王が即位する度、即位式をとりおこなうため、中国皇帝の命を受けた冊封使がやって来ました。

冊封使の一行は総勢400人。琉球王国には毎度約半年間滞在しました。様々な専門家も同行しており、その中には常に菓子職人もいたそうで、中国菓子の製法などが琉球に伝えられました。そして誕生したのが「ちんすこう」と言われています。

中国に由来する沖縄グルメは他にも。沖縄正麺協同組合によると、『沖縄そば』は1534年、琉球王の四十九日供養の際に送られた「粉湯(中国語で汁そばの意味)」が原型とされています。また『さんぴん茶』も、中国の「香片茶(シャンピェンチャ)」というジャスミン茶が由来です。

首里城公園にて

冊封体制において、中国は属国に暦を与え使用させました。その名残は今も残り、中国・中華圏における旧暦(時憲暦)に基づいて年中行事が執り行われます。

沖縄には正月が3回あると言われています。ひとつは現代の正月、もうひとつは旧正月、そしてもうひとつはあの世の正月「ジュウルクニチー(十六日祭)」です。現代の正月は「新正月」と呼ばれ、本土復帰前に行われた「新生活運動」以降に普及しました。

獅子舞が練り歩く行事もある

行事の内容自体も、中国由来のものがあります。例えば、1700年代半ばに中国から伝来した祖先供養の行事「清明祭(シーミー)」は、今も沖縄本島中南部では盛大に行われます。

こちらは旧暦5月4日に県内各地で行われる沖縄の代表的な伝統行事「ハーリー」。サバニと呼ばれる小型の漁船を数人で漕いで競争し、夏の豊漁と海上の安全を祈願します。

1400年頃、南山の3代目・汪応祖が中国へ留学した時、古代中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕「ドラゴンボート(龍舟)」を見学。帰国後、龍舟を模した 「ハーリー船」を、豊見城市・漫湖に浮かべて遊覧したことが由来とされています。

交易の中でシーサーも持ち込まれました。こちらは1689年に作られた最大最古の村落獅子(シーサー)。エジプトのスフィンクスからシルクロードを経由し、ライオン像の文化が中国へ伝わり、獅子像に形を変えて沖縄に伝わりました。

さらに、沖縄の街中や集落を歩いていると、あちこちで見られる石敢當も中国伝来の魔よけの風習。このように、沖縄の伝統文化ひとつひとつのルーツを辿ると、沖縄で生まれ育った文化は少なく、中国の影響が強いことが分かります。

琉球王国が日本の沖縄県になった背景

そんな琉球王国がなぜ今、日本の沖縄県になっているのでしょうか。今回は深堀りしませんが、さらっと確認しておきます。

1500年代後半、ポルトガル船の進出などもあり、海禁政策が緩むと再び民間交易が活発化。そうすると、わざわざ琉球を中継する理由も無くなり、中継貿易は衰退しました。

1609年、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げた島津氏が琉球へ侵攻。島外からの来襲に対する戦闘経験がなく、武器も持たない琉球の軍勢は10日間で敗れ、首里城を明け渡したとされています。

島津氏とその背後の徳川幕府は、琉球の朝貢貿易によって得られる利益と、豊臣秀吉の朝鮮出兵以降に険悪となった対中関係の修復が狙い。そのため中国に対しては、島津氏による琉球支配は隠されました

一方琉球王国も、中継貿易が衰退していたため、王国としての体⾯を保ちながら冊封体制を維持しました。この体制は1879年の琉球処分まで続き、1874年の台湾出兵を機に、琉球の人々は日本人であると解釈されたのです。

★参考:ペリー来港から台湾出兵までの流れ★

こうした流れを踏まえた上で、文化観光を提供する側は、提供したいコンテンツが歴史文化のストーリーの中でどのような意味や価値があるのかを見出す必要があります。同時にその意味や価値は、旅行者が興味を持つものでなければなりません。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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