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今回は「沖縄戦の歴史を知る旅」その1をお届けします。
沖縄戦とは何か
沖縄を知る上で欠かすことが出来ない「戦争」の歴史。1945年3月下旬から約3カ月間、沖縄本島は日米が熾烈な攻撃を繰り広げる戦場となりました。
沖縄戦を戦った日本軍の組織的な抵抗が終了したとされる6月23日、この日は「慰霊の日」として沖縄は祝日扱いとなり、毎年県内各地で追悼行事が行われています。
■ 参考:慰霊の日の平和祈念公園の様子
2020年はコロナウイルスの影響で、そうした行事なども中止となりましたが、夕方の平和祈念公園には多くの方が訪れていました。
沖縄戦が終了してから75年以上が経過し、当時を知る人は少なくなっています。都市化とリゾート化が進み、今の沖縄で戦場だった面影はほとんど感じられず、また観光メニューで戦跡ツアーなども一般化していません。そこで今回は、沖縄戦の歴史を知る旅へと出かけます。
最初にやって来たのは首里城のそばにある「雨乞嶽」。ここからは那覇市内を一望することが出来るスポットです。
琉球王国時代は干ばつが起こると、国王がこの場所で雨が降るのを祈ったことから、その名が付けられています。
1944年10月10日、那覇に初めて米軍の空襲が襲いました。初めは多くの人が日本軍の演習であると思って見ていたそうですが、攻撃は止まず、朝から夕方までの空襲で那覇市街地の90%が焼失。空襲は那覇だけでなく沖縄本島全域・宮古島・石垣島・大東島・奄美群島でも行われ、軍民あわせて死者668人、負傷者768人を出しました。
1945年3月下旬から終戦まで、沖縄県内における犠牲者の数は20万人以上。1940年の国勢調査によると、当時の沖縄県の人口は約57万5千人。これらの数字を用いると、沖縄県民の5人に1人が犠牲になっている計算です(一般的には4人に1人と言われています)。
「10・10空襲」で人々は初めて米軍の強さを目の当たりにしましたが、沖縄戦全体の犠牲者数から分かる通り、この時の米軍はまだ本気を出していなかったことが伺えます。
実際、米軍は空襲を行いながら空中写真を撮影し、沖縄作戦の計画立案に必要な地形情報を収集していました。米軍にとって10・10空襲は、本格的な攻撃を行うための準備に過ぎなかったのです。
その後は1945年3月下旬まで、米軍機が沖縄上空を飛んだり、散発的に空襲が行われたりということはあったようですが、大規模な空襲はありませんでした。そもそもなぜ、米軍は沖縄に空襲を行い、上陸作戦を敢行したのでしょうか。
太平洋戦争と沖縄戦の経緯
沖縄戦は1941年から始まった太平洋戦争の戦いのひとつです。そのため、沖縄戦を知るためにはまず、太平洋戦争に至るまでの流れを確認する必要があります。
日中戦争から太平洋戦争開戦
1930年代、日本は航空機や艦船の燃料となる石油輸入の8割をアメリカに依存していました。しかし、1937年から日中戦争が勃発すると、アメリカは中国の蒋介石政権を支援。日本への経済制裁として、アメリカによる石油禁輸への懸念が高まり、『石油』確保が重要な課題となります。そこで有望視されたのがオランダ領東インド(現インドネシア)です。
1940年9月に始まった日本とオランダ領東インドの間の交渉(日蘭会商)は難航。同じ時期、日本はフランス領インドシナ(現ベトナム)の北部に軍を駐在させ、アメリカ・イギリス・ソ連などから中国へ支援物資を送るルートのひとつを断ち切りました。
結局、1941年6月上旬に日蘭会商は打ち切られ、日本はシンガポール攻略とオランダ領東インドを武力で占領する準備を開始。1941年7月28日、日本軍はフランス領インドシナ南部へ軍を進め、航空基地・港湾基地の取得を目指しました。
こうした日本の動向に対し、1941年8月1日、ついにアメリカは日本への石油輸出を全面的に禁じる経済制裁を発動。戦争を回避するために行っていた1941年4月からの日米交渉も暗礁に乗り上げ、1941年12月1日に東条英機内閣は開戦を決定したのでした。
石油資源の確保を急ぎたい日本軍は、インドネシア占領を目指して、まずは1941年12月8日にマレー半島(イギリス領)へ上陸。それと同時に、アメリカによる介入を防ぐため、ハワイ・真珠湾にあるアメリカの海軍基地へ奇襲攻撃(真珠湾攻撃)を仕掛けました。
これを機に日米は共に宣戦布告。3年半以上にわたるアジア・太平洋戦争が幕を開けました。1941年12月10日、日本軍はマレー沖海戦でイギリス艦隊を撃破。同日に日本軍はアメリカ領グアムを占領し、1942年1月31日にはマレー半島最南端・ジョホールバルも占領しました。
真珠湾攻撃によって、日本軍はアメリカ太平洋艦隊の艦艇に大きな損害を与えた一方で、最大の攻撃目標だったアメリカの航空母艦数艇はみな真珠湾を離れており、攻撃を免れたそうです。
そして、日本軍の攻撃を免れた航空母艦のひとつ「ホーネット」から離陸した爆撃機が、1942年4月18日、東京・神奈川・名古屋・大阪など、日本各地に爆弾や焼夷弾を投下。これが日本本土を襲った初めて空襲で、アメリカによる真珠湾攻撃への報復でした。
ミッドウェー海戦で惨敗
1942年の夏までに、イギリス領だった香港とシンガポール、アメリカ領フィリピン、そしてオランダ領東インドなど、東南アジアの大部分が日本軍の占領下に置かれました。
アメリカ西海岸やオーストラリアにまで攻撃を仕掛け、勢いに乗っていた1942年前半の日本軍ですが、日中戦争に加えて、太平洋戦争も長期戦になっては本末転倒です。連合艦隊の山本五十六司令長官は、アメリカの航空母艦を攻め、早期に決定的な打撃を与えることを考えていました。
そこで実行されたのが、アメリカ軍の飛行場があったミッドウェー島を攻撃し、航空母艦をおびき寄せる作戦(1942年6月 ミッドウェー海戦)です。結果は日本軍の惨敗。犠牲者3000名以上、空母4隻を失う大損害を被りました。
1942年8月から半年続いたカダルカナル島での戦いにも敗れ、ニューギニア東部でも苦戦が続き、日本軍は完全に劣勢に立たされていましたが、当時のメディアは日本軍の勝利を伝え、国民もそれを信じていたそうです。この時はまだ、沖縄が戦場になると考えていた国民はほとんどいなかったことでしょう。
1943年9月30日、日本軍は本土防衛のため死守しらなければならない地域(絶対国防圏)を決定。 国防を強化する地域に沖縄が含まれたことで、いよいよ沖縄が戦場となる可能性が出てきたのです。
サイパン陥落と疎開命令
1944年6月11日、米軍は当時日本が占領していたサイパンへの攻撃を開始しました。
日本本土へ攻撃する際の出撃基地として、また開戦直後に日本に占領されたグアムを奪還する拠点として、サイパンは米軍にとって重要でした。地上戦も展開され、外務省のホームページよると、軍民合わせて5万人以上が犠牲となったそうです。
サイパン島には沖縄出身の移民が多く、そうした人々も戦争に巻き込まれたことから、1968年には琉球政府によって慰霊碑「おきなわの塔」が建てられました。
1944年7月7日、日本軍はサイパン島での組織的な戦闘を終了。絶対国防圏のサイパンを突破された日本軍は、米軍が南西諸島へ侵攻すると予想。すぐさま南西諸島の老幼婦女子10万人(九州へ8万人・台湾へ2万人)の疎開を決定しました。しかし日本近海は、すでにアメリカをはじめとする連合国軍に包囲されている状況でした。
1944年6月29日、沖縄に向って航行中の輸送船「富山丸」が、徳之島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃により撃沈。約3700名が犠牲となりました。1944年8月22日には、沖縄から九州方面へ疎開する子供たちを多く乗せた「対馬丸」も、悪石島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。こうした状況で、沖縄県外への疎開はなかなか捗らなかったようです。
■ 参考:徳之島にある富山丸の慰霊碑へ
この頃には、東南アジアから日本に運ばれてくる石油の量も減少。これは連合国軍による石油施設への爆撃に加えて、タンカー撃沈による船舶不足によるものです。
米軍が沖縄に上陸
米軍は1944年8月にグアム、10月にはフィリピンを取り戻し、さらに最新鋭爆撃機B29の基地をサイパンに建設。1944年11月24日、サイパンから出撃したB29が初めて東京への空襲を行いました。1945年3月10日の東京大空襲では、住民を中心に9万5,000人を超える人々が犠牲となっています。
■ 参考:隅田川と太平洋戦争
10・10空襲以降、本格的な空襲はなかった沖縄ですが、状況が一変したのは1945年3月23日。沖縄本島南部沿岸に米軍の艦隊が終結し、一斉に攻撃を開始。そして3月26日、米軍は那覇の西40kmの海上に浮かぶ慶良間諸島・阿嘉島に上陸し、小さな島々をあっという間に占領したのでした。
■ 参考:阿嘉島の米軍上陸地点へ
沖縄本島で地上戦が始まる
1945年4月1日、1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって、米軍は沖縄本島への上陸作戦を開始しました。
3月23日から始まった本島南部での攻撃は、ここから上陸すると見せかけるための陽動作戦。読谷村・残波岬~北谷町の沿岸に上陸した米軍は、日本軍からの反撃をほとんど受けず、従軍記者アーニー・パイル氏は「まるでピクニックのようだった」と報告しています。
■ 参考:アーニーパイル氏と国際通り
沖縄本島に上陸したその日のうちに、読谷に米国海軍軍政府が設立され、米軍は上陸2日目の午後に東海岸へ到達。沖縄本島を南北に分断した後、4月13日に沖縄本島最北端・辺戸岬へ到達、4月21日には伊江島を占領しました。
こうして沖縄本島北部は約3週間で米軍の占領下となりましたが、日本軍が組織的な抵抗を終了するのはそれから2カ月後のこと。つまりここからが長く、沖縄戦はより悲惨なものとなります。
北谷町にある米軍上陸地モニュメント
本島南部でまだ激しい戦闘が続いていた1945年5月、本島中部・石川(現うるま市)の収容所では学校が再開されました。同じ沖縄本島でも、その様相は全く異なるのです。
北谷町にある米軍上陸地モニュメントには、北谷町長の名で「日本で唯一の悲惨な地上戦」という文言が綴られていますが、この解釈は沖縄でよく見られる誤り。現在の日本の国土で、沖縄よりも先に米軍が上陸し、激しい地上戦が繰り広げられたのが、小笠原諸島・硫黄島です。
現在の硫黄島は、島全体が自衛隊の基地になっており、一般の人は生活していません。また小笠原諸島全体でも、一般人が暮らしているのは父島と母島の2島だけですが、戦前は各島々に人々の営みがありました。
■ 参考:小笠原諸島の歴史
1944年6月15日、サイパンに上陸と同じ日に、米軍による空襲を受けた小笠原諸島。機銃掃射による被害が民間人にも及んだことを受け、青壮年者約800名を除く全島民に強制疎開が出され、約7,000人が本土へ疎開したのでした。そして1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸し、待ち構えていた日本軍と激しい地上戦を繰り広げます。
また、日本がポツダム宣言を受諾してから3日後の1945年8月15日、ソ連軍が日本の領土である北海道・千島列島の最北端にある占守島に侵攻。激しい地上戦の後、日本軍はソ連軍に大きな損害を与え、北海道本土への侵攻を防ぎました。
沖縄戦は「日本で唯一の地上戦」ではありませんが、地上戦に多数の住民が巻き込まれたという点においては、現在の日本で唯一の地と言えるでしょう。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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