溶岩に覆われた島を歩いて1周!火山の島・三宅島を観光 人口と産業もご紹介|2018 旅行記

島旅

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今回は「2018年 三宅島旅行記」をお届けします

火山の島・三宅島を観光

2018年4月20日金曜日、この日は大きなリュックサックを背負って出社し、仕事終わりにそのまま竹芝桟橋へやって来ました。目的地は三宅島。土曜日に島で1泊し、日曜日の夜に東京へ戻ってくるプランです。

乗船券はインターネット割引が適用されて片道5,690円。竹芝桟橋のトイレでスーツを着替えて、22時30分発の橘丸に乗船!三宅島までは約6時間半の船旅です。

朝焼けに染まる三宅島

船の揺れも少なく、よく寝ることが出来ました。三宅島入港を案内する船内放送で目が覚めたのは、朝5時前のことです。

橘丸は定刻踊り三宅島・錆ケ浜港に到着。下船したら港で宿の方と合流し、まずはお迎えの車で宿へ向かうのが一般的な観光の流れです。

私はテント持参の野宿なので、港に待機していた路線バスに乗車し、大久保浜キャンプ場へ向かいます。

大久保浜漁港から見た大久保浜

そして、「大久保浜港」のバス停で降車。少し歩いて、海辺にあるキャンプ場に到着しました。利用には事前予約が必要ですが料金は不要。お手洗いや水道もあります。この日は私以外の利用者はいませんでした。

さっそくテントを設営し、歩き始める準備をします。目標は時計回りに歩いて三宅島1周!その距離は約30kmです。

まずやって来たのは御笏神社。事代主命の后(奥さん)にあたる佐伎多麻比咩命が祀られている神社です。ちなみに事代主命は、伊豆諸島の島々を創ったとされており、三島大社に積羽八重事代主神という名で祀られています。

■ 参考:伊豆諸島の成立について

そのすぐ近くにあるのが、樹齢450年・高さ23mにもなるビャクシンの木(手前)と島役所跡(奥)。島役所跡は、伊豆諸島に現存する木造建築で最古最大の規模を誇り、1534年からこの場所にあるそうです。現在も住居として使用されているため、内部は非公開となっています。

続いてやって来たのは椎取神社。こちらには佐伎多麻比咩命が一度に産んだ八王子のうち、「したい」と呼ばれる王子様が祀られています。

それよりも気になるのは周囲を囲む真っ白な木々たち。これらの木々は火山噴火による火山ガス影響で枯れてしまっているのです。

現在の社殿と鳥居は再建されたもので、本来の鳥居は2000年の噴火で発生した大量の泥流に飲み込まれてしまっています。

枯れた木々の周りにあるのも、2000年の噴火以降に復活した木々たち。三宅島の中心にそびえる雄山(標高775m)は、昔から噴火を繰り返し、島の暮らしや景観に大きな影響を与えてきました。

溶岩に覆われた島を歩いて1周

続いてやって来たのは火の山峠園地。

現在も雄山周辺には、火山ガスの放出による立ち入り禁止区域が設けられているため、これ以上近づくことは出来ません。

富士火山帯上に位置する火山島・三宅島。約2500年前の大噴火から12世紀後半まで噴火が続き、現在の雄山が形成されたそうです。過去500年間では、合計13回の噴火が起こっています。

こちらは島を1周する道路沿いにあるひょうたん山(標高64m)。1940年の噴火で放出された大量の溶岩・火山弾・スコリア・火山砂などによって、22時間のうちに形成されたそうです。

同じ伊豆諸島の新島や式根島、神津島の岩が白っぽいのに対し、三宅島で見られるのは黒い岩。マグマが地上へ噴出するときの温度が低いと白っぽく、高いと黒っぽくなります。つまり、三宅島で噴出した溶岩の温度は高かったのです。

また、マグマの温度が高いと溶岩の粘り気が弱く、流れやすくなるため、なだらかな地形が形成されます。

直近で雄山が大噴火をしたのは2000年6月下旬から9月にかけてのこと。噴煙の高さは最大で8000mにも達し、火砕流も発生したため、島民約4,000人が島外での避難生活を強いられることとなりました。

三宅島への避難指示が解除され、島民の帰島が始まったのは2005年。その後も火山ガスの放出は続き、2015年にようやく全居住地区の規制が解除されました。以前は観光客にもガスマスクの携帯が求められ、竹芝桟橋でも販売されていたそうです。

現在は火山活動が落ち着いているため、ひょうたん山の火口周辺には植物も育っています。

こちらはひょうたん山の横にある三七山展望台。GLAYの名曲「HOWEVER」のPV撮影が行われたスポットでもあります。

こちらはサタドー岬。1954年にこの灯台が出来てから、三宅島は3回も噴火しているのです。

人口と産業

海の向こうにうっすらと見えているのは御蔵島。三宅島と御蔵島の周辺には野生のイルカが棲みついているため、ドルフィンスイムを楽しむことも出来ます

三池浜(三池港)までやって来ました。この日の橘丸は島の西側にある錆ケ浜港に入港しましたが、通常は三池港を利用することが多いです。三池港周辺には家々や行政機関などが集まり、ダイナミックな自然景観とは一転、人々の暮らしが感じられます。

三池港の近くには空港もあります。農水産業と観光の振興を目的に、1966年に都営空港として供用を開始。2014年まではANAの羽田便も飛んでいました。

滑走路は1976年に1200mまで延長されましたが、2000年の噴火以降、三宅島への航空路は運休。2008年に再開された後も、火山ガスの影響で就航率が50%に満たなかったことからANAは撤退し、現在は調布飛行場からのセスナ機が1日3往復、御蔵島・大島を結ぶヘリが1日1往復ずつ運航しています。

空港の中はこんな感じ。まるで病院の待合室のようですが、保安検査場はしっかり設けられています。

海蔵寺というお寺にやってきました。こちらは1717年の火災で記録などが焼失し、沿革などは分かっていません…ということは、1717年の三宅島にはすでに人が住んでいたということです。

2020年の国勢調査によると、三宅村の人口は2,300人。島内では縄文時代の遺跡も発見されており、古くから人は住んでいたようです。人口が増加したのは江戸時代。江戸幕府が直轄する流刑地となり、約200年の間に1,000人を超える流刑者が島へやって来たと言われています。

こちらは三宅高校。学校のホームページによると、2022年度の入学者は9名なので、全校生徒の30名程度でしょうか。

三宅島には小学校・中学校・高校がそれぞれひとつずつありますが、子供の数は少なく、人口ピラミッドを見ても、高齢化が進んでいるのは明らかです。

島の産業を見ると、『建設業』に従事している人が最も多く、2番目に多いのも『公務』で、行政の税金が島の経済に大きな影響力を持っている様子が伺えます。

火山だけじゃない!バードアイランド

年間2万人~3万人の観光客が訪れる三宅島。見どころは火山景観だけではありません。

三宅島の別名は「バードアイランド」。全国から多くのバードウォッチャーが訪れているそうです。その方たちのお目当ては、約2500年前の噴火で出来た伊豆諸島最大の淡水湖「大路池」。

池の周囲には希少な野鳥が生息しており、その野鳥密度は日本一とも言われています。近くには「三宅島自然ふれあいセンター・アカコッコ館」という施設もありますが、今回は時間が無かったので、立ち寄ることが出来ませんでした。

新鼻新山は1983年の噴火で噴出した岩石や火山灰が一晩で降り積もって出来た火砕丘

三宅島は火山活動により、鳥たちの天敵となる陸上の生き物(蛇など)が姿を消したそうです。その噂を聞きつけた鳥たちが三宅島を訪れるようになり、一緒に植物の種も運ばれてきたことで、現在は溶岩の上に緑が広がっています。

そして自然景観と野鳥が観光客を呼び込み、島の経済や暮らしが回っているのです。ヒトが自然の天敵にならないように、十分配慮しなればなりません。

しばらく歩いて伊豆岬灯台に到着。こちらは明治後期に造られた灯台です。

伊豆岬には野鳥観察小屋がありました。大路池でもここでも、しばらく鳥を探してみましたが、この日鳥の姿を見ることは一度もありませんでした。

三宅島を歩いて1周し、大久保浜キャンプ場に戻ってくることが出来ました。アップダウンも多く、自転車も大変そうなので、レンタカーやレンタルバイクで観光するのが一般的な楽しみ方だと思います。

18時、ちょうど夕陽が沈もうとしています。この日はテントを張って野宿。まともな電気も無く、真っ暗闇で星空を楽しむことしか出来ません

溶岩を歩く 火山体験遊歩道へ

だらだらと寝たり起きたりを繰り返しながら朝を迎えました。

三宅島には錆ヶ浜港 ・伊ケ谷港・三池港という3つの港があり、橘丸がどの港を利用するかは、前日の夜に決まることが多いです。

東京行きの橘丸が三宅島を出港するのは13時半。東海汽船のホームぺージを確認すると、この日は錆ヶ浜港を利用するようです。

船の出港まで時間があるので、キャンプ場から約2時間歩いて、錆ヶ浜港の近くにあるメガネ岩にやって来ました。こちらは1643年の噴火で発生した溶岩流が波に侵食されて出来た海食洞です。

かつては穴が2つあり、「メガネ」の様相を呈していましたが、1959年の伊勢湾台風で崩壊。現在は穴が1つだけの状態となっています。

火山体験遊歩道」も錆ヶ浜港のそばにある観光スポットです。溶岩の上に遊歩道が整備されており、ダイナミックな自然景観を楽しむことが出来ます。

これらの溶岩は1983年の噴火によって流れ出たもので、溶岩の下には当時あった約340戸の民家が埋没しているそうです。

こちらは溶岩に飲み込まれた旧阿古小中学校。噴火当時のまま保存されています。1980年代の教室の様子を見ることが出来るという点でも貴重かもしれません。

校舎はもともと3階建てですが、地上に見えているのはの3階部分だけ。もの凄い量の溶岩流だったことが分かりますが、当時この地区(阿古集落)に住んでいた約1,300人は全員無事だったそうです。

温泉を中心とした観光や漁業で賑わっていた阿古集落に、溶岩が流れ込んだのは噴火から約2時間後。最終の避難バスが通過した約10分後のことでした。

約3か月経っても、その上を歩くと靴底のゴムが解けてしまうほど、溶岩は熱を持っていたそうです(遊歩道にはこうした説明書きのある看板がいくつか設置されています)。

現在はその溶岩にも植物が育っていますが、雄山は活火山で、気象庁が常時観測を行っています。1940年以降は、およそ20年に1回のペースで噴火をしており、こうした景色を見ることが出来るのも、今のうちかもしれません。

さらば三宅島

火山体験遊歩道には約30分ほど滞在。錆ヶ浜港で東京行きの橘丸を待ちます。

橘丸は定刻より少し遅れてやってきました。青海原に黄色く派手な船体が映えます。およそ1日半の三宅島滞在はこれにて終了。

さらば三宅島。港には島民の方が数名、見送りに訪れていました。今回は約30kmを歩いて1周しましたが、島の方と話す機会がほとんどなかったのが、少し心残りです。

緑の木々に覆われた三宅島と雄山。20年に1度噴火するとしたら、次の噴火はいつやって来るのでしょうか。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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