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今回は「2023年 小笠原諸島旅行記」その3をお届けします。
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小笠原諸島・硫黄島を船から見る
2023年7月1日、小笠原海運主催の硫黄3島クルーズに参加し、おがさわら丸で南硫黄島から硫黄島へ向かっています。
南硫黄島から硫黄島までの距離は約56km。8時30分から1時間50分かけて、島の周囲(約22km)を右回りに1周する予定です。
硫黄島が見えてきました。読み方は「いおうとう」。旧島民や小笠原村からの要請を受け、2007年6月に「いおうじま」という呼称から変更されました。鹿児島県三島村にも「硫黄島(いおうじま)」があるため、混同を避ける目的もあるのでしょう。
■ 参考:2017年 硫黄島(三島村)旅行記
太平洋に浮かぶこの小さな島は戦争の激戦地として有名です。太平洋戦争末期の1945年2月16日から同年3月26日までの間、硫黄島では日米両軍による激しい地上戦が展開され、日本軍約2万1900人、アメリカ軍約6800人が戦死しました。
日本本土とサイパンのちょうど中間地点に位置する硫黄島。戦争が近づくと、1933年に「東京府第二農場(農場と見せかけた海軍戦闘機飛行場)」が仮設されたのを皮切りに、1943年には1200mの滑走路が完成。日本軍が南方へ向かうときの補給・給油基地となりましたが、この飛行場がアメリカ軍に狙われたのです。
■ 参考:日本と南洋群島の歴史
太平洋戦争の末期、アメリカ軍は日本本土への空襲を行う爆撃機の補給・給油基地として、硫黄島獲得を目指しました。1945年2月16日、米軍は艦船800隻と航空機4,000機による硫黄島への猛攻撃を開始。同年3月26日まで1か月以上にわたって、日米による激しい地上戦が行われました。
硫黄島における戦死者数は日本側で約1万1900人、アメリカ側で約6800人。なお、こうした戦争の歴史は父島のビジターセンターで詳しく知ることが出来ます。
一般人は上陸することが出来ない有人島
終戦後、硫黄島は他の小笠原の島々とともに米軍統治下に置かれ、アメリカの空軍や沿岸警備隊の基地として利用されました。
1968年6月26日に小笠原諸島が日本に返還されてからは、海上自衛隊の航空基地が置かれ、島内全域が自衛隊の管轄下となり、現在も一般人が島内に立ち入ることは出来ません。
1970年7月に決定した小笠原諸島復興計画において、帰島及び復興計画の対象となったのは父島と母島のみ。硫黄島は「不発弾の処理及び遺骨収集の状況との関連において復興の方途を検討する」として復興事業の対象にはならず。
1984年5月の小笠原諸島振興審議会においても「硫黄島は火山活動による異常現象が激しい上、産業の成立条件も厳しく、一般住民の定住は困難」とされました。
活火山の島
硫黄島は島内に「元山」と「摺鉢山」という2つの火山があり、この2つの火山を海岸砂丘の「千鳥ケ原」が繋いで形成されている『活火山の島』です。
気象庁によると、島内は全体に地温が高く、多くの噴気地帯・噴気孔があり、異常な速さで島全体隆起が続いており、島内各所で噴火が発生しているとのこと。
火山性ガスにより特有の臭いも立ち込めているようです。戦前に標高167mだった摺鉢山も、隆起によって現在は標高170mとなっています。
ちなみに、硫黄島島民による摺鉢山の愛称は「パイプ山」。これは摺鉢山の山頂付近から火山活動による蒸気が上がっているときに、海から島全体をから見ると、パイプでタバコをくゆらせているように見えることが由来です。
島の面積も拡大を続けており、平成26年10月1日時点の硫黄島の面積は23.73 km²で、それまで小笠原諸島で一番面積の大きかった父島(23.45 km²)を抜いて一番となりました。
終戦後、米軍が何艘ものコンクリート船を千鳥ケ浜に沈め、港が無かった硫黄島に桟橋を作ろうとしましたが、隆起スピードが速く断念。そのまま放置されたコンクリート船はいつの間にか陸上に姿を現し、今回も船上からも見ることが出来ました。
■ 参考:1
■ 参考:2
おがさわら丸船上での慰霊祭
硫黄島に残る遺骨の調査および収容は1952年から始まりました。しかし、2016年1月末日までに発見・収容された遺骨の数は10,378柱。いまだに11,520柱の遺骨が硫黄島に眠ったままの状況です。
今回は硫黄島のそばを航行するおがさわら丸の船上で慰霊祭が行われていました。一般の乗客も1人1本ずつ渡された菊の花を海へ献花。おがさわら丸の汽笛と共に黙とうをする時間がありました。
■ 参考:3
自衛隊が常駐している
一般人は上陸出来ないはずですが、摺鉢山をよく見るとこちらに向かって手を振る人たちがいます。これは硫黄島に常駐する自衛隊の皆さんです。
硫黄島に常駐している自衛隊員の数は公表されていませんが、2020年の国勢調査を見ると、335名の方が硫黄島で「公務」に従事していることが分かります。恐らくこのうちの大部分が自衛隊員の方々です。
また公務以外にも、島内の施設で働いている人の数が計上されており、硫黄島が有人島であることが分かります。硫黄島での求人情報は一般的な求人情報サイトにもたまに出ているので、気になる方は定期的にチェックしておくのがおすすめです。
硫黄島周辺ではスマホの電波も入りました。しかし、出歩くことが出来る場所がほとんど無いため、島内での長期滞在はどうやらかなり退屈なようです。なお、父島や母島での滞在中に、病気や怪我などで救急搬送が必要になった場合には、一般人は硫黄島へ運ばれます。
まずは、硫黄島の自衛隊医務官が父島や母島の現地にヘリコプターで向かい、患者を硫黄島へ搬送。硫黄島からは航空機(現在は哨戒機の P-1が主)で神奈川県の厚木基地へ。その後、救急車で都立広尾病院へと運ばれる流れとなっています。その所要時間は9時間にもなるそうです。
■ 参考:4
硫黄島の歴史
そんな硫黄島にも一般人が普通に暮らしている時代がありました。
小笠原諸島の歴史は1543年(世界は大航海時代)、北太平洋の探査航海していたスペインのサン・ファン・デ・レトラン号が火山列島【北硫黄島・硫黄島・南硫黄島】を発見したところから始まります。
その後、1779年イギリスのジェームス・クックの艦隊は硫黄島を「sulfur(硫黄)island」と命名。最初の発見からこの時代まで、周囲に強い硫黄の臭いを発していた硫黄島には住民がおらず、どこの国にも属していなかったようです。
明治時代になると、硫黄はマッチや火薬、染料、殺虫剤、製紙などに使われる貴重な資源となり、1889年に父島の船大工だった田中栄二郎ら数名が硫黄採掘と漁業目的で硫黄島に上陸。初の入植者となりました。
その後、高純度で良質な硫黄が採れることが分かると、1891年に政府は火山列島の領有を宣言。各島は北硫黄島・硫黄島・南硫黄島と命名され、翌年に硫黄島で硫黄採掘事業がスタートしました。
しかし、硫黄島では硫黄を採掘できる鉱区に限度があることが判明。1903年に採掘作業を一時停止したものの、硫黄の採掘権を持っていた久保田宗三郎が原野の開墾に目をつけ、積極的に移民を誘致したこともあり、人口増加は止まらず。
1913年に久保田拓殖合資会社を設立されると、島内で本格的にサトウキビ栽培および製糖が始まりました。1920年代に砂糖の価格が下落すると、野菜や果樹の栽培もスタート。小笠原諸島では冬に採れる夏野菜(トマト・カボチャ・キュウリ・ナス・スイカなど)が、本土で高値で取引されたそうです。
麻酔薬の原料となったコカや農業用殺虫剤の原料となったデリスの栽培、噴気孔から出る蒸気を利用したレモングラスのオイル精製なども行われ、業績を伸ばしました。
川が無く、井戸も掘ることが出来ない硫黄島。人々の生活用水は貯水タンクに貯めた雨水でした。ただ、1880年代後半以降は本土と父島を結ぶ定期船が年間24便就航し、そのうち6便が硫黄島および北硫黄島へも寄港。米や日用品、衣料品などがより手に入りやすくなり、島内の商店ではビールなどの酒類やサイダー、菓子なども販売されていました。
1940年の人口は1051人。この年には郵便局も開局し、戦争で配給制度が始まるまでは本土と変わらない生活が出来ていたそうです。
さらば硫黄島。疎開のために島を離れる人々も、いつか島へ戻れると信じて、船から島を見送ったのでしょうか。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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