米軍上陸の地 座間味村・阿嘉島の歴史と産業 ~鰹漁の島から観光の島へ|2022 沖縄旅行記3

旅の思い出

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今回は「2022 沖縄・阿嘉島旅行記」その3をお届けします。

★前回の記事★

沖縄の鰹漁始まりの地・座間味

沖縄の鰹漁業始まりの地として知られる慶良間諸島。その島のひとつ・阿嘉島を歩いて観光しています。

座間味生まれで村長も務めた松田和三郎氏が、1895年に鹿児島県と宮崎県から鰹漁師を招き、地元の漁師を訓練。1901年から島で本格的に事業を始めました。

1910年代には鰹船11隻が操業し、10の組合が発足。島の男性のほとんどが漁業に従事し、女性たちは鰹節を製造する工場で働いたそうです。松田氏は事業拡大を続け、鰹節は砂糖に次ぐ沖縄で2番目に大きな産業となりました。

しかし、1920年以降は不漁が続き、台風被害や世界恐慌なども重なって事業は後退。座間味の漁師たちは、南洋諸島(パラオ、北マリアナ諸島、ミクロネシア、マーシャル諸島)まで漁場を拡大しましたが、そこに追い打ちをかけたのが太平洋戦争でした。

■参考 1

米軍上陸のと沖縄戦の歴史

阿嘉島の集落には「太平洋戦争 沖縄戦上陸之地」という石碑があります。

那覇市から西へ約40キロに位置し、島々に囲まれた穏やかな内海を有する座間味村(慶良間諸島)。こうした地理的特性から、琉球王朝時代に唐船貿易の中継地として栄え、太平洋戦争時には沖縄上陸を目指す米軍もその価値を評価していました。

日本軍も米軍の沖縄本島上陸は想定内。米軍を背後から奇襲するため、慶良間の島々に約300艇の海上特攻艇を配備していました。阿嘉島にも特攻艇が隠されていた壕は残されています。

沖縄本島とその周辺の島々への空襲が激しくなったのは1945年3月23日。海上からの艦砲射撃も勢いを増し、3月26日8時、ついに米軍は阿嘉島へ上陸。数日間で慶良間諸島の島々は占領され、4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸するに至ります。

米軍上陸によって追い詰められた住民たちが自決(自分や家族の命を自ら絶つこと=集団自決)を余儀なくされ、座間味島や渡嘉敷島では数百人が犠牲になりました。

一方、阿嘉島で集団自決は無かったようです。多くの住民が山奥で避難生活を続け、米軍に投降したのは1945年8月23日(=ポツダム宣言の後)。沖縄で最も長く地上戦を闘っていた島のひとつかもしれません。

■参考 2

座間味村の産業

こちらは慶留間島にある「伊江村民収容地跡記念碑」。1945年5月、米軍は伊江島占領後の戦場整理として、島民約1700人を渡嘉敷村に、約450人を慶留間島へ強制収容しました。

その後は伊江島民の帰島もあり、2020年現在、座間味村と渡嘉敷村を合わせた人口は1,610人。今後は減少傾向が見込まれています。

戦後、座間味の鰹漁業は以前より大きな漁船で再開しましたが、操船人員の不足など様々な問題のため、1976年に事業は終了。写真の蛭子丸組合も、かつてこの地にあった鰹節製造組合ですが、1967年に過疎化によって解散となったそうです。

2020年の国勢調査によると、阿嘉島を含む座間味村で農業を営む人は2人、漁業は7人。阿嘉島を歩いていても、緑は多い一方で、畑を見かけることはありませんでした。3割以上の島民が「宿泊業、飲食サービス業」、いわゆる「観光業」に従事していることが伺えます。

鰹漁の島から観光の島へ

慶良間空港から歩いて阿嘉島の港まで戻ってきました。那覇へ戻る船の出向まで時間があるので、それまで集落を散策します。

垣花商店。商品数もそれほど多くない小さなお店です。島にスーパーはありません。

郵便局はあります。

ガソリンスタンドもありますが、ビニールシートが被せられており、果たしてこれは営業しているのか…

お昼を食べていなかったので、開いていたカフェに入りました。こうした飲食店は数軒あるようです。

ケーキとコーヒーでたくさん歩いた疲れを癒します。

15時半、さらば阿嘉島。今回は雨が降る中、約4時間半のみの日帰り滞在でしたが、十分楽しむことが出来ました。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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