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今回は【2020年→2021年 年末年始の旅】旅行記その14をお届けします。
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列車と代行バスで苫小牧から様似へ
2021年1月3日の朝7時半頃、北海道・苫小牧駅にやって来ました。
乗車するのは7時52分発の様似行。この日はJR北海道「日高本線」の旅です。
駅の電光掲示板には「様似行」と表示されていましたが、この列車で行くことが出来るのは途中の鵡川駅まで。鵡川駅ー様似駅間は、2015年以降に高波・豪雨・台風等の被害が相次ぎ、鉄道復旧の目途が立っておらず、代行バスに乗り換える必要があります。
苫小牧駅からおよそ30分で鵡川駅に到着。
代行バスは駅前で列車の到着を待っており、乗り換えが済み次第発車しました。ちなみに、このバスで静内駅行なので、この先でもう一度バスへの乗り換えがあります。
乗客は私を含め3人。皆さん地元の方ではなく旅行者です。
代行バスは日高本線の各駅に立ち寄りますが、乗客の乗り降りもほとんどありません。
遮断機が外された踏み切りを横断。こちらは駅でしょうか。すっかり朽ち果ててしまっています。
2015年から代行バスで運行されていた日高本線の鵡川駅ー様似駅間でしたが、2020年10月末にJR北海道は「2021年11月廃止」という届けを提出。結局その日付は繰り上げられ、私がこの旅を終えた2か月後、日高本線の鵡川駅ー様似駅間は廃止となりました。
苫小牧駅ー鵡川駅間は、今後も「日高本線」という名称で運行されますが、苫小牧駅で「様似行」という表示を見ることはもう出来ないのです。また、鵡川駅ー静内駅ー様似駅間は「代行バス」ではなく、日高地域広域公共バスが運行されています。
「汐見駅」は、ホームの駅名標が残されていました。廃線後はこうした駅の備品も撤去されるのでしょう。
「日高門別駅」もバスから見ることが出来ました。ここまでは災害の被害が無かったため、復旧が求められていた区間でもあります。
鵡川ー静内 線路跡が見える
海沿いの積雪は少な目。雪が積もっていたら、どこが線路なのか分からなかったと思いますが、バスからも線路は見えました。
線路は海岸線に沿っているため、列車からの車窓はとても美しかったのだろうと想像されます。一方で、海に近いがゆえに、自然災害の影響を受けやすい路線でもありました。
この橋の高さまで川が増水したのか、波が打ち寄せたのか… 確かに、復旧には時間がかかりそうです。
よく見ると、鉄橋の下まで波が打ち寄せています。海沿いを走る路線は他にもありますが、海の上を走る路線は多くありません。これは維持するのも大変そうです。
こちらでも線路を支える土台が流されて、線路が宙ぶらりんになっています。
鵡川駅を出発してから約2時間、代行バスの終点・静内駅に到着しました。
日高本線開業の歴史を辿る
日高本線の利用者は災害以前から減少しており、苫小牧駅ー様似駅間が全線鉄道で運行されていた2014年度も11億円の赤字。こうした状況に災害が追い打ちをかけたのでした。
こちらは日高本線代行バスが走るむかわ町・日高町・新ひだか町・浦河町・様似町を合わせた人口推移。2020年の人口は約5万7千人となっています。人口減少が著しいことは明らかですが、1980年の時点でも、人口は10万人以下です。
これだけ人が少ない地域に、なぜ鉄道が走っているのでしょうか。苫小牧駅から静内駅までの鉄道開通は、王子製紙と三井物産という2つの会社が大きく関係しています。
製紙業は漢字の通り『紙を製造すること』。木材を薄く砕いた「チップ」を煮込んで、繊維(パルプ)を取り出し、それらを重ね合わせることで紙が完成します。木の近くに工場があった方が、輸送コストを削減することが出来る【原料指向型】の工業です。
1910年に王子製紙製紙苫小牧工場が操業。当時「東洋一の規模」とも言われた工場が苫小牧に建設された背景には、3つの地理的な条件があります。
- 苫小牧周辺には、勇払原野や支笏湖周辺の山林(=原料となる木材)がある
- 支笏湖(=紙の製造に使用する水と水力発電)がある
- 夕張の石炭を室蘭港へ運搬する鉄道がある(=石炭(燃料)輸送と製品輸送に有利)
1909年、王子製紙苫小牧苫小牧工場に周辺地域の木材を運ぶため、三井物産が苫小牧駅ー鵡川駅間に馬車鉄道を建設。1911年には佐瑠太(後の富川)駅まで延伸されました。この馬車鉄道が現在の日高本線のルーツです。その後、三井物産から馬車鉄道を譲り受けた王子製紙が、1913年に「苫小牧軽便鉄道株式会社」を設立し、苫小牧駅ー佐瑠太駅間に鉄軌道が敷かれたのでした。
当時、佐瑠太駅から約40km離れた静内には、すでに人々の暮らしがありました。明治初期、洲本城代家老・稲田九郎兵衛邦植(淡路島)の旧家臣546人らが上陸し、静内の開拓が本格化したと言われています。地元有志らによる請願と王子製紙による資金協力があり、1926年には佐瑠太駅ー静内駅間に日高拓殖鉄道が開通しました。
日高拓殖鉄道の終点「静内駅」
日高拓殖鉄道の終点として開業した静内駅。もうここに列車は来ませんが、ホームへの立ち入りには入場券が必要です。この時はみどりの窓口も営業されていました。
静内駅に併設されている観光情報センターには、観光パンフレットなどと一緒に、馬のパネルが置かれていました。
駅前にも馬の像があります。流石、日本一の馬の産地・日高地方。この先は代行バスも、馬牧場のそばを通過していきます。
車窓から馬が見えた!
静内駅では代行バスの乗務員さんの交代がありました。先ほどまで乗っていた車両(バス)に再び乗車し、引き続き終点の様似駅を目指します。
静内駅を出発してすぐに渡る静内川では、白鳥たちが羽を休めていました。どうやら静内川は、道内で最も多く白鳥が飛来する川のようです。この光景は日高地方の冬の風物詩としても紹介されています。
そして、ついに馬を発見!戦前は馬が旧日本軍の乗り物として扱われ、1906年からは「馬政局」という行政機関も設置されました。馬政局は軍馬の改良に取り組み、1907年に「日高種馬牧場(浦河町)」が開設。日高地方で馬の放牧が始まりました。
戦前からサラブレッドの放牧が行われていた日高地方。馬の産地として、その名を一躍全国に広げたのが1960年代の「競馬ブーム」です。同時期には米の生産調整も始まり、日高地方では多くの水田が牧草地や馬の放牧場に代わりました。
服を着ている馬がいました。馬は寒冷地にも適応しやすく、枯れ草が含む微生物の働きで熱を発生させ、体内を温めているそうです。
馬牧場を離れ、バスは再び海沿いへ。日高本線は途中、多くの川を通過します。日高山脈を源流とするこれらの川は、山の栄養を海へと運び、その栄養豊かな海で育つのが「日高昆布(みついし昆布)」。
昆布漁が行われる夏は、ここで昆布が天日干しされている様子を見ることが出来るそうです。
戦前の法律により作られた路線だった
静内駅を出発してから1時間45分、12時前に日高本線の終点・様似駅到着しました。
廃駅となった様似駅には観光案内所が設置されています。この先にあるアポイ岳は「かんらん岩」から出来ているため、森林が発達せず、高山植物の宝庫として知られているそうです。2015年にはユネスコ世界ジオパークへの加盟も果たしました。
明治期の開拓以前の江戸時代から、海辺川の支流で採金が行われ、繁華な集落が形成されていたという様似町。1792年にラクスマンが根室にやって来てからは、松前と千島列島の中間地として、重要拠点に位置付けられました。
■ 参考:ラクスマンが根室にやって来た理由
様似町まで鉄道が敷かれることになった背景にあるのが、1922年に公布・施行された改正鉄道敷設法です。この法律で『胆振国苫小牧ヨリ鵡川、日高国浦川、十勝国広尾ヲ経テ帯広ニ至ル鉄道』の建設が決まり、1927年に政府は王子製紙専用路線と日高拓殖鉄道を買収。路線名称が日高本線となり、10年かけて様似駅まで延伸されました。
つまり、日高本線は法律によって建設された鉄道であることが分かります。また当初は、様似駅が終点ではなく、広尾経由で帯広まで至る計画でした。
帯広駅ー広尾駅間は1932年に完成し、広尾線として営業していました。しかし、様似駅が開業した1か月前から日中戦争が始まり、本格的な戦争の時代へ突入。そのまま様似駅ー広尾駅間の線路が繋がることはなく、1987年に広尾線は廃止されました。現在は様似から広尾・襟裳岬を経由し、帯広に至る路線バスがあります。
戦後に様似駅ー広尾駅間の建設が行われなかった理由として、襟裳岬周辺の「険しい地形」はあると思いますが、鉄道敷設法自体が開拓と軍事を目的とした戦前の政府の政策です。戦後になって、わざわざこの区間に鉄道を通す理由もなかったのでしょう。
間もなく静内駅行きの代行バスがやって来ました。ナンバーが違うので、ここまで来た時とは異なる車両です。駅周辺にはセイコーマートもセブンイレブンもあり、それなりに栄えていますが、昼食を買う時間はありませんでした。
乗客は私を含め数名、というよりも、様似までやって来た時と車内のメンバーは同じ。住民と思われる方は乗っていません。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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