日本本土にはない文化や芸能などが今も残る沖縄。その歴史の基礎知識を身に付けておくと、沖縄旅行がもっと味わい深いものになります。もともと沖縄は「琉球王国」だったことは知られていますが、その歴史は少々複雑で記録も少ないです。ということで今回は、文化観光の基礎となる琉球王国と沖縄の歴史をまとめました。
■ 参考:沖縄旅行でリゾートが人気の理由
琉球王国の歴史と中国との関係
1368年、中国に明国が成立すると、自国を中心とした国際秩序の構築を目指しました…という感じで、いきなり中国の歴史が絡んでくるのが、沖縄の歴史を語る上での特徴です。「チャンプルー(ごちゃまぜ)文化」とも言われる沖縄。立地に起因する国際性がこそが沖縄文化のルーツであるが故、その歴史を知るには、少々世界史の知識も必要です。
明国が成立した当時の東アジアでは、商人によって交易が盛んに行われていましたが、明国は冊封体制下で海禁政策を実施。自由貿易を禁止し、『明国の皇帝へ貢物を献上(朝貢)し、忠誠を誓う国』、つまり冊封体制下へと加わった国に交易を限定しました。こうした体制をとることで、周辺地域の安全保障を図ることが明の狙いだったようです。
冊封体制に参加した国も、明と交易が出来るだけでなく、周囲の国々や国内に対して権威を高めることが出来るなどのメリットがありました。1372年に明の皇帝・洪武帝は、三山時代の沖縄へ使節団を派遣。モンゴル帝国第5代皇帝・フビライ=ハンが北京に置いた元王朝(1271年~)を追い出すため、洪武帝は火薬の原料となる硫黄を求めていたと言われています。
■ 参考:沖縄県の硫黄の産地「硫黄鳥島」について
琉球王国成立以前は、沖縄で勢力争いを繰り広げていた北山・中山・南山が、それぞれ一国として、明の冊封体制に参加する中、1429年に中山の王・尚巴志が沖縄を統一。しかし、冊封体制下で勝手に国王を自称することは出来ず。明の皇帝からの承認を得て初めて、尚巴志を王とする「琉球王国」が認められました。
■ 参考:沖縄の三山時代について
琉球王国は優れた中国商品を大量に輸入し、それらを近隣諸国へ輸出。同時に中国へ持ち込むための商品を日本や東南アジアから調達するなど、冊封体制の恩恵を大いに受けながら、東アジアの中継貿易国として重要な役割を果たしました。
なお、1500年代後半には、ポルトガル船の進出などにより海禁政策が緩和され、再び民間交易が活発化。わざわざ琉球を介して交易を行う意味が無くなり、中継貿易は衰退しました。
ちなみに日本は、第3代将軍足利義満の時代に冊封体制に入りましたが、4代将軍足利義持の時代に離脱。6代足利義教の時に再開されましたが、その後は続かなかったようです。日本にとっては冊封体制に入るメリットがあまり無かったのでしょう。
沖縄文化のルーツは中国?
冊封体制下の沖縄(琉球)に持ち込まれた中国の文化や風習は、今も沖縄に根付いています。
琉球王国では新しい国王が即位する度に、中国皇帝の命を受けた冊封使が派遣され、首里城で即位式が執り行われました。冊封使の一行は総勢400人。その中にはいつも菓子職人がおり、琉球に伝えられた中国菓子の製法から「ちんすこう」が誕生したと言われています。
「さんぴん茶」は、中国の「香片茶(シャンピェンチャ)」というジャスミン茶が由来。「沖縄そば」もまた、琉球国王の四十九日供養(1534年)の際に送られた「粉湯(中国語で汁そばの意味)」が原型とされています。
中国は冊封体制に参加した国に「暦」を与えました。沖縄の年中行事は、現在も中華圏における旧暦(時憲暦)に基づいて行われるものが多いです。その代表例が「正月」。沖縄には正月が3回あると言われています。各正月は以下の通り。
- 新正月:新暦の1月1日、いわゆる元旦で戦後に普及
- 旧正月:旧暦の1月1日、中国の春節と同じ日付
- 十六日祭:あの世の正月、琉球王国で生まれた考え方(由来は諸説あり)
他にも、1700年代半ばに中国から伝来した祖先供養の行事「清明祭(シーミー)」は、今も沖縄各地で盛大に行われます。
こちらは旧暦5月4日に沖縄各地で行われる「ハーリー」。サバニと呼ばれる小型の漁船を数人で漕いで競争し、夏の豊漁と海上の安全を祈願する伝統行事です。1400年頃、南山の3代目・汪応祖が中国へ留学した時、古代中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕「ドラゴンボート(龍舟)」を見学。帰国後、龍舟を模した 「ハーリー船」を、漫湖(豊見城市)に浮かべて遊覧したことが由来とされています。
シーサーも中国から伝わった文化です。こちらは1689年に作られた最大最古の村落獅子(シーサー)。エジプトのスフィンクスからシルクロードを経由し、ライオン像の文化が中国へ伝わり、獅子像に形を変えて沖縄に伝わりました。
沖縄の街中や集落を歩いていると、あちこちで見られる石敢當も中国伝来の魔よけの風習。このように沖縄の伝統文化ひとつひとつのルーツを辿ると、沖縄発祥であるものは少なく、中国由来のものが多いのです。そんな琉球王国がなぜ中国ではなく、日本の沖縄県になったのでしょうか。
琉球王国と日本の関係
1609年、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げた島津家久(忠恒)が琉球へ侵攻。島外からの来襲に対する戦闘経験がなく、武器も持たない琉球王国軍は10日間で敗れ、首里城を明け渡しました。
島津氏のバックにいたのは徳川幕府です。幕府が期待していたのは、琉球の朝貢貿易によって得られる利益と、豊臣秀吉の朝鮮出兵により険悪になっていた対中関係の修復。一方琉球王国も中継貿易が衰退していたため、冊封体制を維持しましたが、島津氏による琉球支配は隠されました。鎖国時代にも、幕府が琉球王国経由で中国と外交関係を続けていたことはあまり注目されていない歴史です。
1874年、当時中国(清朝)の領土だった台湾に宮古島の年貢運搬船が漂着。船の乗組員54人が先住民族「生蕃(せいばん)」に殺害されるという事件が発生すると、明治政府は台湾へ軍を送り込みました(台湾出兵)。ここでポイントになるのは以下2点です。
- 1871年に明治政府は中国(清)と日清修好条規を結び、互いの国土を侵さないことを約束していた
- 宮古島は琉球王国の支配下だったが、明治政府は日本国民が殺害されたとみなした
清朝は当初、生蕃については統治範囲外であるとし、関与しない態度を示していましたが、日本の台湾出兵は日清修好条規に反するとして抗議。そのため、明治政府は大久保利通を北京へ向かわせ交渉を行いました。
日本軍が台湾に上陸してから約5か月後、駐清イギリス公使ウェードの仲介で調印されたのが「日清両国互換条款」です。これにより清朝が日本の出兵を『自国民を守るため(義挙)』と認め、見舞金を支払ったため、日本は台湾から撤兵することとなりました。
そしてこれ以降、琉球王国の人々は日本人であると解釈され、1879年に明治政府は沖縄県を設置。琉球王国は事実上消滅し、長らく続いた冊封体制も終了しました。こうした琉球王国が沖縄県になるまでの一連流れを、教科書的には「琉球処分」と言います。
沖縄文化の観光化における課題
沖縄の特色ある文化・芸能等を観光資源として活用することを目的として、沖縄県は2011年度に「沖縄県文化観光戦略」を策定。それから10年以上経ちましたが、沖縄の「文化」をテーマにした観光は人気がありません。
文化観光戦略が策定された翌年から、沖縄県の観光要覧に「伝統工芸・芸能体験」という項目が登場。旅行中に文化観光を楽しんでいる観光客の割合の測定が始まりましたが、その数字は右肩下がり。ネットで「沖縄 文化 観光」と調べてみても、おすすめのスポット(場所)が紹介されるばかりで、文化の背景にあるストーリは全く紹介されていません。
今回ご紹介した沖縄の歴史を踏まえた上で、文化観光を提供する側は、提供したいコンテンツが歴史文化のストーリーの中でどのような意味や価値があるのかを見出す必要があります。同時にその意味や価値は、旅行者が興味を持つものでなければなりません。少々複雑な歴史を持つ沖縄では、文化や歴史を観光化する難易度が高いのです。
.
今回はここまで。本日もありがとうございました。
★こちらもおすすめ★
コメント