ジョン万次郎と小笠原・沖縄の歴史関係~上陸の地「大度浜海岸」に行ってみた|2025 旅行記16

島旅

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今回は「2025年 小笠原諸島に育休移住してみた」その16をお届けします。

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ジョン万次郎と沖縄・小笠原の歴史関係

2025年4月26日、小笠原諸島・父島での育休移住生活は13日目を迎えました。

港へ向かう前にローカルベーカリーでパンを調達。スーパーでビールも購入し、港で船がやって来るのを待ちます。

11時前、おがさわら丸は定刻通りにやって来ました。GW便ということで、この日の乗船客数は552名と比較的多めです。

この船は父島で3泊した後に折り返し、4月29日15時発の東京行きとなります。我々もこの船で帰るので、育休移住生活ももうすぐ終わりです。

入港を見届けた後は、港のそばにある「大神山公園(通称:お祭り広場)」にやって来ました。この日は【こどもまつり】が行われており、多くの人達で賑わっています。

普段は父島にいない警視庁の白バイも展示されており、ここではバイクに跨って記念撮影をすることも出来ました。

こちらは台車で運ばれる海上保安庁のマスコット「うみまる」。島の子供たちによる出店も多く、柏餅の無料配布もあり、楽しむことが出来ました。

ビジターセンターにて

ちなみに、小笠原にはカシワが自生していないので、昔はモモタマナを柏餅の葉に利用したそうです。

■参考:モモタマナッツバターを食べる

ジョン万次郎の生い立ち

そして、午後は小笠原ビジターセンターにやって来ました。

この日からスタートした『ジョン万次郎展』を見学します。副題は「万次郎と小笠原との関わり」。ジョン万次郎と小笠原にはどんな関係があるのでしょうか。

1827年、現在の高知県土佐清水市に生まれた万次郎。貧しい漁師の次男で、幼くして父を亡くし、幼い頃から稼ぎに出ていたといいます。

■参考:1

1841年、14歳の万次郎は仲間5人と共に漁に出た際、足摺岬沖で嵐に遭遇。数日間漂流した後、伊豆諸島の無人島「鳥島」に漂着しました。これが万次郎にとって、初めての東京諸島上陸となります。

■参考:万次郎は黒潮に流されたと考えられる

1800年代は植民地の拡大や捕鯨活動(鯨油を求めていた)が活発で、欧米諸国の船が太平洋を頻繁に航行していた時代。1841年6月28日、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が、ウミガメの卵を食料とするために鳥島付近を航行していたところ、島にいた万次郎たちを発見しました。

■参考:ウミガメを食べる島・小笠原

ジョン万次郎展の資料より

過酷な無人島生活を送ること143日、万次郎たちはようやく救助されました。しかし当時の日本は鎖国中で、外国船が容易に近づける状態ではなく、帰国できたとしても命の保証はなかったそうです。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろします。

■参考:鎖国体制の日本

一方、万次郎のことを気に入っていた船長は、万次郎をアメリカへ連れて行きたいと考え、本人に意志を確認。万次郎も渡米を望み、船長と共にアメリカへ行くことを決断。船名にちなんで「ジョン・マン」という愛称を授けられた万次郎は、1843年5月6日、日本人として初めてアメリカの地を踏んだのです。

ジョン万次郎上陸の地(沖縄県)に行ってみた

ジョン万次郎展の資料

その後、万次郎はホイットフィールド船長の養子としてマサチューセッツ州で暮らし、学校では英語・数学・測量・航海術・造船技術などを熱心に学んだといいます。こうしたことから、日本人留学生第1号とも称される存在です。

ジョン万次郎展の資料

卒業後は数年間捕鯨船に乗った後、日本への帰国を決意。ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントの金鉱で帰国資金を手にすると、ハワイで待つ漂流仲間のもとへ向かいます。ハワイで購入した捕鯨ボートを「アドベンチャラー号」と名付け、上海へ向かう商船「サラボイド号」へ乗船しました。

ジョン万次郎展の資料

1850年12月17日、サラボイド号は上海へ向けてハワイを出港。1851年2月2日に沖縄県糸満市の沖合でアドベンチャラー号を降ろし、万次郎は陸地を目指しました。こうして、万次郎他2名は小渡浜に上陸。当時の沖縄県はまだ「琉球王国」でしたが、一応彼らは約10年ぶりの帰国を果たしたのです。

こちらが万次郎らが上陸したとされる小渡浜(沖縄県糸満市)。沖縄本島のほぼ最南端に位置し、現在は大度浜海岸やジョン万ビーチとも呼ばれている場所で、シュノーケルスポットとしても人気です。

こちらが沖縄本島南部を通る国道331号線から大度浜海岸への入口。ここでは「ジョン万次郎上陸之地」がパワースポットとしても紹介されていました。

その後も、いくつか案内板があるので、その通りに進んでいくと駐車場に到着しますが、ここで注意が必要です。真っ直ぐ進んでいくと私有地?で、駐車料金500円が発生します。この道を右手に行くと無料駐車場です。

無料駐車場がこちら。スペースも十分でお手洗いもあります。そして、この駐車場の向こうにある遊歩道を歩いた先に…

ジョン万次郎の石碑があります。石碑の万次郎が指差しているのは、故郷・足摺岬の方角とのこと。土台には万次郎の経歴が刻まれており、それによると、小渡浜に上陸した万次郎たちは村民から温かいふかしイモをご馳走になったそうです。

豊見城市にあるジョン万次郎記念碑

一方、万次郎たちは持参した牛肉やコーヒーをその場で調理し、村民に披露したといいます。ただ、荷物はすべて役人に没収され、現在の豊見城市にある高安家に幽閉されました。その場所には現在、ジョン万次郎記念碑が立っています。

着物姿の村民、カウボーイハット姿の万次郎

万次郎たちは箸の使い方が上手だったことから、日本人と認められたそうです。高安家での半年間に及ぶ幽閉期間中、村民たちとは自由に交流し、沖縄の「いちゃりばちょーでー(一度会えば皆兄弟)」の精神に触れたといいます。また、かつて琉球王国の船が難破した際に土佐藩の人たちに助けられたこともあり、万次郎たちは手厚い保護を受けたそうです。

■参考:当時の沖縄はまだ琉球王国

琉球王府の役人による取り調べを受けた後、万次郎たちは長崎へ送られることに。しかし当時の薩摩藩主・島津斉彬は万次郎を鹿児島に留め、40数日間にわたって船大工などに造船や航海術を学ばせたり、船の模型を作らせたりしたそうです。その後、長崎奉行所でも尋問を受け、1853年にようやく土佐へ帰ることができました。

■参考:鹿児島にも万次郎の展示がある

大度浜海岸には「ジョン万次郎の足跡を示す島の石採集展示事業」として、ホノルルの石が設置されています。

ちなみに、小笠原ビジターセンターの展示には、こうした沖縄での話が無かったので、私の写真を提供させていただきました。

ジョン万次郎が小笠原に上陸

万次郎は土佐の藩校「教授館」の教授に就任。後に高島炭鉱を買収する政治家・後藤象二郎や、三菱の社長となる岩崎弥太郎らが直接指導を受けたそうです。

ジョン万次郎展の資料にて

その後、ペリーが来航すると、アメリカの情報を必要としていた幕府に江戸へ召集されます。スパイ容疑によりペリーの通訳を務めることはありませんでしたが、1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため渡米する使節団の随行艦「咸臨丸」に通訳兼技術指導員として乗船。艦長の勝海舟や福沢諭吉らと共に太平洋を渡りました。

■参考:ペリー来航の歴史

アメリカから帰った翌年、当時領有権が曖昧になっていた小笠原を開拓するため、品川を出港した咸臨丸にも万次郎は乗船。こうして万次郎は小笠原への上陸を果たしたのです。

■参考:小笠原航路の歴史

こちらはジョン万次郎展に展示されていた、父島・二見湾に停泊する咸臨丸の絵。左上の山の頂には、日本国旗が掲げられており、これが現在の「旭山」という名の由来になっています。

■参考:旭山を観光

そして、こちらは江戸幕府の調査隊が来航した際に描かれた、母島・沖村のジェイムス・モットレイ家(イギリス人)の様子。右奥で和服を着て立っている男性か、左端に立っている侍のどちらかがジョン万次郎だといわれているそうです。

■参考:小笠原の歴史を観光

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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