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今回は「2026年 北前船の歴史を辿る旅(大阪&石川編)」その2をお届けします。
★前回の記事は こちら ★
無料の渡し船に乗船
2026年8月9日の14時45分、JRゆめ咲線の終点・桜島駅(大阪市此花区)にやって来ました。

この日の目的地は『天保山』。その標高は4.53mしかなく、日本一低い山として知られています。天保山から直線距離で最も近い駅、いわば「登山口」となるのが桜島駅です。
桜島駅と天保山の直線距離は約400m。しかし、その間には安治川という川が流れており、近くに歩行者が渡れる橋もないので、渡し船で対岸へ渡ります。ということで、まずは桜島駅から歩いて10分ほどの場所にある天保山渡船場へ。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがある桜島。対岸の天保山のそばには、世界最大級の水族館・海遊館があり、周辺も観光地になっています。USJと天保山エリアを結ぶ天保山渡船は、大阪観光に便利な渡し船といえるでしょう。

10分ほど歩いて天保山渡船場に到着。15名ほどでしょうか。船の到着を待つ人たちの姿がありました。なお、近くには全長640mの天保山大橋が架かっていますが、阪神高速5号湾岸線(=高速道路)なので、歩いて渡ることはできません。

こちらは待合室にあった時刻表。朝6時から夜20時まで、1時間に2便~4便の頻度で運航されています。なお、この時刻表は天保山側(「港区側」や「築港側」と呼ばれることもある)の出港時刻。約2分で桜島にやって来て、乗下船が完了次第、折り返し出港するようです。

ちょうど、15時発の便が対岸からやって来ました。小さな渡船と一緒に写っているのは、天保山客船ターミナル(大阪港天保山岸壁)に停泊していた豪華客船「セレブリティ・ミレニアム(総トン数91,011t)」です。

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そしてスムーズに接岸。なんとこの船は、誰でも無料で利用することができるので、乗船券を購入したりする必要はありません。

船内はこんな感じ。座席はなく、自転車もそのまま載せることができます。令和7年度は、1日平均882人が利用していたとのこと。観光客よりも地元の人が多い印象です。
この天保山渡船は、1905年に開設された100年以上の歴史を持つ渡し船。大阪港の繁栄を企図した大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、現在は大阪市建設局が運航しています。乗ること自体がひとつの体験として、十分に楽しめる渡し船です。
■参考:1

2分弱で対岸に到着しました。

さすがは「水の都」とも言われる大阪。市内では今も、天保山渡船を含めて8か所で市営の無料渡船が運航されています。

そして、下船してすぐの場所にある、こちらの壁が天保山の外郭です。
天保山の成り立ち
安治川は、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の時代、1684年に河村瑞賢が水害対策として開削した運河です。

海と市中を結ぶルートとして多くの船が出入りし、木津川とともに「天下の台所」と呼ばれた大阪(当時は大坂)の港の中心となりました。そんな安治川の浚渫工事で出た土砂を積み上げて出来た山が天保山です。

工事は天保2~3年(1831年~1832年)に行われ、その年号が山の名前の由来となっています。当時の標高は約18m。夜間航行の目印として高灯籠も設置され、北前船をはじめ、大阪港に入る船の目印にもなりました。

山には桜などが植えられて遊興地としても整備され、「四時ともに遊興の人絶ゆることなく」と記されるほど、大阪の町人が集まる一大観光名所だったそうです。

船の発着地としても賑わい、1866年には、坂本龍馬と妻・お龍がここから蒸気船に乗り、九州方面へ新婚旅行に旅立ったと伝えられています。
■参考:龍馬とお龍は巌流島にも上陸したらしい


一方で、その少し前の1854年には、開国を求めるロシアの軍艦・ディアナ号が大阪湾に入港。これをきっかけに大阪湾の防備が急がれ、天保山は削られて砲台(天保山台場)が築かれました。
■参考:ディアナ号が大阪にやって来た理由

日本一低い山なのか
砲台の建設で大きく削られた天保山は、その後の地盤沈下も重なって、現在は標高4.53mとなっています。砲台の跡は残っていません。

天保山の山頂には「日本一低い山」の看板があります。ただ、国土地理院のホームページにある「国土の情報に関するQ&A」によると、日本で最も高い山は富士山である一方、日本で一番低い山は把握していないとのこと。

私が天保山を訪れるのは今回が2回目。前回訪れた2012年当時は、確かに日本一低い山とされていました。しかし現在は、日和山(宮城県仙台市)が日本一低い山とされています。

日和山は2011年の東日本大震災の津波で山体が削られ、2014年に国土地理院の測量で標高3mと確認されたそうです。それでも天保山には、国土地理院の二等三角点が設置されています。

三角点は、山の頂上付近や見晴らしの良い場所などに設置され、緯度・経度が正確に求められている測量の基準点です。二等三角点のある山としては、今も天保山が日本一低い山です。
「日本一低い山」の登頂証明書は、今も天保山商店会が発行しています。商店会の加盟店で買い物をすると貰えますが、今回は時間がありませんでした。続いては、天保山から1kmほど歩いて、赤レンガ倉庫へと向かいます。
大阪港の歴史と赤レンガ倉庫
大阪市は、昔の航路標識「澪標(みおつくし)」を市章にしているように、古代から港とともに繁栄してきた都市です。

長い鎖国の後、1868年に安治川河岸で川口運上所(現在の税関の前身)が開設され、大阪は諸外国に向けて開港します。ただし、当時の大阪港は、船が安治川などの川を上って岸に着く、いわゆる河川港で、水深が浅く、大型の外国貿易船の出入りは困難でした。
■参考:ペリー来航と開港の経緯


さらに、明治維新によって政治の中心は東京へ移り、諸藩の蔵屋敷も廃止されて、「天下の台所」と呼ばれた商都大阪は停滞していきます。そこで大阪は、商業の街から工業の街への転換を図りました。

紡績業が発展すると、綿花の輸入や綿糸・綿織物の輸出が増え、大型の外国船が入港できる近代的な港がいっそう求められるようになります。そこで1897年に、「大阪の繁栄は港から」という市民の熱望を受け、本格的な築港工事に着手。

大阪市が投じた額は当時の市の予算の20倍とされています。川を遡った川口に代わり、河口の天保山付近に、海へ面した港が築かれることとなりました。築港赤レンガ倉庫も、この築港事業の流れの中で生まれた建物です。
■参考:北前船の終焉


1897年に始まった第1次築港事業は、財政難や不況のため思うように進みませんでした。しかし、第一次世界大戦後に貨物の量が増えると、港の整備が急がれるようになり、住友財閥が事業の一部を引き受けます。

そして1923年、住友倉庫によって赤レンガ倉庫が建てられたのでした。こうした大阪湾の築港事業と淀川の大改修によって、大阪は国際都市として発展を遂げたのです。

16時前、大阪メトロ中央線の大阪港駅にやって来ました。続いては、北前船とゆかりのある住吉大社へと向かいます。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
この日の目的地は『天保山』。その標高は4.53mしかなく、日本一低い山として知られています。天保山までは、大阪市が運行する無料の渡し船で安治川を渡ります。今回は二等三角点のある山としては、日本一低い山である天保山の成り立ちや、大阪港の歴史についても調べてみました。
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