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今回は「沖縄戦の歴史を知る旅」その2をお届けします。
★前回の記事★
サイパンと硫黄島が陥落
1944年6月11日、米軍は当時日本が占領していたサイパンへの攻撃を開始しました。

日本本土へ攻撃する際の出撃基地として、また開戦直後に日本に占領されたグアムを奪還する拠点として、サイパンは米軍にとって重要でした。サイパンでは民間人を巻き込んだ日米の地上戦が展開され、7月7日に日本軍は組織的な戦闘を終了。続いて米軍は1944年8月にグアム、10月にはフィリピンを取り戻しました。

サイパンでの戦いによる犠牲者数について、外務省のホームページよると、軍民合わせて5万人以上が犠牲となったそうです。当時のサイパン島には沖縄出身の移民が多く、そうした人々も戦争に巻き込まれたことから、1968年に慰霊碑「おきなわの塔」が琉球政府によって建てられました。

絶対国防圏のサイパンを突破され、米軍が南西諸島へ侵攻するという予想から、政府はすぐさま南西諸島の老幼婦女子10万人(九州へ8万人・台湾へ2万人)の疎開を決定。しかし、この時の日本近海は、すでにアメリカをはじめとする連合国軍に包囲されている状況でした。

1944年6月29日、沖縄に向って航行中の輸送船「富山丸」が、徳之島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃により撃沈。約3700名が犠牲となりました。1944年8月22日、沖縄から九州方面へ疎開する子供たちを多く乗せた「対馬丸」も、悪石島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈しました。
この頃には、東南アジアから日本に運ばれてくる石油の量も減少していました。この原因も連合国軍による石油施設への爆撃に加えて、タンカー撃沈による船舶不足によるものです。

船で疎開することには危険を伴うため、沖縄県外への疎開はなかなか捗らなかったようです。また、当時の沖縄県の人口は約50万人。疎開命令が出されたのは奄美群島を含む南西諸島全体で10万人だったのです。
沖縄に米軍が上陸
10・10空襲の後、沖縄に大規模な空襲はありませんでした。

一方米軍はサイパンに最新鋭爆撃機B29の基地を建設し、日本本土への空襲を本格化。1944年11月24日には、サイパンから出撃したB29が初めて東京への空襲を行いました。1945年3月10日の東京大空襲では、住民を中心に9万5,000人を超える人々が犠牲となっています。
★参考:隅田川と太平洋戦争★

沖縄の状況が一変したのは1945年3月23日。沖縄本島南部沿岸に米軍の艦隊が終結し、一斉に攻撃を開始。そして3月26日、米軍は那覇の西40kmの海上に浮かぶ慶良間諸島・阿嘉島に上陸し、小さな島々をあっという間に占領しました。

1945年4月1日、1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって沖縄本島への上陸作戦を開始。本島南部での攻撃は、ここから上陸すると見せかけるための陽動作戦でした。読谷村・残波岬~北谷町の沿岸に上陸した米軍は、日本軍からの反撃をほとんど受けず、従軍記者アーニー・パイル氏は「まるでピクニックのようだった」と報告しています。
★参考:アーニーパイル氏と国際通り★

米軍は、沖縄本島に上陸したその日のうちに、読谷に米国海軍軍政府を設立。2日目の午後には東海岸へ到達し、沖縄本島を南北に分断しました。その後は4月13日に沖縄本島最北端・辺戸岬へ到達、4月21日に伊江島を占領。こうして沖縄本島北部は約3週間で米軍の占領下となりましたが、日本軍が組織的な抵抗を終了するのはその2カ月後のこと。

つまり、ここからが長く、米軍が首里城の地下に置かれた日本軍の司令部を目指して南下を始めてから、沖縄戦はより悲惨なものとなります。本島南部でまだ激しい戦闘が続いていた1945年5月、本島中部・石川(現うるま市)の収容所では学校が再開されました。同じ沖縄本島でも、その様相は全く異なるのです。
沖縄戦は唯一の地上戦なのか
北谷町にある米軍上陸地モニュメントには、北谷町長の名で「日本で唯一の悲惨な地上戦」という文言が綴られていますが、この解釈は沖縄でよく見られる誤りです。

現在の日本の国土で、沖縄よりも先に米軍が上陸し、激しい地上戦が繰り広げられた場所がありました。それは小笠原諸島・硫黄島です。

現在の硫黄島は、島全体が自衛隊の基地になっており、一般の人は生活していません。また小笠原諸島全体でも、一般人が暮らしているのは父島と母島の2島だけですが、戦前は各島々に人々の営みがありました。
★参考:小笠原諸島の歴史★

1944年6月15日、サイパンに上陸の同日に、米軍は小笠原諸島にも空襲を行いました。民間人にも機銃掃射による被害が出たことを受け、青壮年者約800名を除く小笠原諸島の全島民に強制疎開が命ぜられ、約7,000人が本土へ疎開。そして1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸し、待ち構えていた日本軍と激しい地上戦を繰り広げます。

また、日本がポツダム宣言を受諾してから3日後の1945年8月15日、ソ連軍が日本の領土である北海道・千島列島の最北端にある占守島に侵攻。激しい地上戦の後、日本軍はソ連軍に大きな損害を与え、北海道への侵攻を防ぎました。
★参考:北海道とロシアの歴史★

この戦いでも、日ソ両軍に犠牲者が出ています。沖縄戦は「日本で唯一の地上戦」ではありませんが、地上戦に多数の住民が巻き込まれたという点においては、現在の日本で唯一の地と言えるでしょう。
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