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今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その11をお届けします。
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夢の島熱帯植物館へ
2023年7月17日、新木場駅(東京都江東区)から歩いて10分のほどの場所にある「夢の島熱帯植物館」にやって来ました。

江東区のホームページによると、熱帯植物館では隣接する「新江東清掃工場」の余熱が利用されており、温室の暖房や館内の冷暖房、給湯などに必要なエネルギーは、すべて清掃工場から送られてくる高温水でまかなわれているとのこと。

入場券をゲット。料金は大人1人250円です。

早速バナナの木(苗?)がありましたが、外は普通に江東区の気候。寒い時期だけ館内へ移動させるのでしょうか。

こちらが「今!!咲いている花マップ」。館内で展示されている植物は約1,000種類にもなるそうです。

そして館内へ。この日は外も酷暑でしたが、館内は風が無いため、より「むわっと」しています。年間を通じて気温20度、湿度60%ほどに保たれているそうですが、30度を超える外よりも暑く感じました。
「東京のハワイ」を考察する

現在の夢の島である「東京湾埋立14号地」が誕生したのは1938年のこと。巨大な水陸両用空港「東京市飛行場」を建設するための土地でしたが、飛行場計画は戦争による資材不足のため中止となります。

終戦から2年後の1947年、使い道が未定だった14号地に「夢の島海水浴場」がオープン。この時から「夢の島」という名称が使われるようになりました。ここで興味深いのは、当時夢の島が『東京のハワイ』として宣伝された点です。

高度経済成長による水質汚染が起こる前の東京湾は、とても綺麗な海で、ビーチにはヤシの木も植えられたとのこと。しかし、当時はまだ海外渡航が自由化されておらず、旅行目的でハワイを訪れたことのある日本人はいなかったはず。果たして、人々は「ハワイ」にどんなイメージを抱いていたのでしょうか。
■ 参考:日本人と海外旅行の歴史
日本とハワイの歴史
江戸幕府が「海外渡航を許可する布達(告示)」を出し、人々の海外渡航が認められた頃、ハワイ王国ではさとうきび農園で必要な労働力を確保するため、海外からの移民受け入れが始まっていました。

横浜でも移民の募集が行われ、1868年5月17日には帆船サイオト号が150名の移民を乗せて横浜港を出港。この時の移民は、後に「元年者」と呼ばれるようになります。なお、「元年者」の渡航は、準備中に江戸幕府が滅亡し、明治政府もハワイへの渡航許可を取り下げていたため、形式上は違法出国とされました。

カメハメハ大王が1810年にハワイ諸島の統一を宣言し、初代国王となって以降、ハワイはカメハメハ王朝によって統治されます。しかし次第に、アメリカ人やイギリス人がキリスト教の布教や新たなビジネスを求めてハワイへ進出。

やがて、王国の経済は「ビッグファイブ」と呼ばれる白人系の五大財閥(アレキサンダー&ボールドウィン、アメリカン・ファクターズ、ブリューワー、キャッスル&クック、テオ・H・デービス)の支配下に置かれるようになりました。

五大財閥は、主にアメリカ本土向けに供給する砂糖の生産を手掛け、さとうきび栽培がハワイの基幹産業へと発展していきます。中国やアジア各国、ポルトガルなどから多くの労働者が動員され、プランテーションで働かされました。ハワイに到着した元年者が向かったのも、白人オーナーが経営するさとうきび農園でした。
■ 参考:1
海外渡航自由化前の日本人とハワイ観光

この頃のハワイは、観光開発や近代都市化がまだ進んでいらず、サイオト号に乗船した移民総取締の牧野富三郎は、「南国」「親切な人々」「生活しやすい」「良い所」という印象を抱いたとされています。

1885年1月、日本はハワイと日布移民条約を締結。これにより、ハワイへの渡航が公式に許可されました。同年2月8日、日本人移民944名を乗せた船「シティ・オブ・トウキョウ」がホノルル港へ到着。移民たちは、10~20人単位で市街地を自由に見物したと記録されています。
■ 参考:シティ・オブ・トウキョウに乗っていたのは周防大島の人々?

1885年のハワイには、「元年者」が抱いた温暖な気候や親切な人々といった印象に加え、豪華なホテルや西洋の邸宅も存在していました。それら白人の文化的空間は、日本から訪れた移民たちが見物する対象として受け入れられ、ハワイの文化の一部となっていたようです。

1893年、親米派住民と米軍のクーデターによりハワイ王国が崩壊。ハワイがアメリカに併合されると、さとうきび産業で富を築いた五大財閥は、併合後の産業振興策として「観光」に注目します。

特にワイキキでは観光開発が本格化。南国情緒あふれる宴会(ルアウ)で、先住民の踊りや音楽が披露されましたが、激しく腰を振るタヒチアン・ダンスが、あたかもハワイの伝統舞踊のように紹介されたり、フラも女性の肌や腰の動きを強調した形で演出されたりしたようです。さらに、ハワイを舞台にした映画や音楽も、ハリウッドで大量に制作されます。

本来は神聖なものであったハワイ先住民の伝統文化は、1800年代の宣教師によって「野蛮」「不道徳」として禁止されましたが、1900年代に入ると、観光の文脈で商品価値ある見世物として再構築されたようです。

ワイキキ・ビーチやハワイの「楽園」のイメージは、メディアと観光開発によって生み出された人工的な産物となり、アメリカ本土の人々はそのイメージを現地で「確認」するためにハワイを訪れました。
■ 参考:2

1904年に出版された『最新正確布哇渡航案内』(木村芳五郎)によると、日本人の間では「モアナ・ホテル」「ハワイアン・ホテル」「ヤングホテル」の3軒が一等旅館として知られていたようです。ワイキキには「望月」「東洋館」「とかし」といった日本式の「海水浴館」(リゾートホテル)も建設され、西洋人だけでなく、一部の裕福な日本人にとっても魅力的な滞在地となってました。
■ 参考:3

もっとも、当時の日本人は、旅行・観光を目的とした海外渡航が原則として認められていません。実際にハワイのリゾート地に宿泊していたのは、日本からの視察団や政府関係者、あるいは出張中のビジネスマンだったと考えられます。

そうした人々による口コミを通じて、「日本人が憧れるハワイ像」は旅行解禁前からすでに形成されつつありました。そしてハワイ側もまた、日本人の嗜好に合ったリゾート地として整備が進んだのでしょう。
「東京のハワイ」から「ゴミの島」へ

「東京のハワイ」として宣伝され、家族連れなどで賑わった夢の島でしたが、たび重なる台風被害や財政難の影響を受け、わずか3年で閉鎖。その後、巨大遊園地を建設する計画も持ち上がりますが、実現せずに7年間放置されることになります。

やがて日本は高度経済成長期を迎え、国民の暮らしは急速に豊かさを増していくと同時に人口も増加。日々発生する大量のゴミを、既存の処分場では対応しきれず、東京都心で発生したゴミが夢の島へ運ばれることとなりました。当時の処分方法は、生ゴミを含めた可燃物を焼却せずにそのまま投棄するというもの。夢の島はあっという間にゴミで覆いつくされたそうです。

1971年、江東区長は「江東区だけが都市のゴミ公害の吹きだまりにされるのはゴメンだ」と発言。これを受け、当時の東京都知事は「ゴミ戦争」を宣言し、各区で発生したゴミはそれぞれの区内で処理する方針を打ち出します。

夢の島に江東清掃工場が誕生したのは1974年のこと。翌年には「夢の島」が正式な町名として江東区に編入され、埋め立てられたゴミの上に土がかぶせられ、芝生や樹木が植えられて緑化が進みました。そして1978年に「夢の島公園」がオープン。「夢の島熱帯植物館」が開館したのはそれから10年後のことです。
小笠原諸島の固有種を見る
熱帯植物館ではALOHAフェスタやフラダンスショーなどのイベントも開催されており、夢の島は南国の雰囲気を取り戻したとも言えるでしょう。

ただし、熱帯植物館で常設展示されているのはハワイの植物ではなく、小笠原諸島に自生する植物。館内には小笠原諸島について紹介するパネルもありました。

こちらは小笠原の固有種「マルハチ」。よく見ると、丸の中に八の字を逆にした模様があり、この模様が名前の由来となっています。

タコノキも小笠原の固有種。これらの固有種は、通常島外へ持ち出すことができないため、小笠原以外の場所で見られるのは貴重です。

ちなみに、小笠原の気候は「亜熱帯海洋性気候」と紹介されることが多いですが、高校地理などで習うケッペンの気候区分に「亜熱帯」はありません。

ケッペンの気候区分に当てはめると、小笠原の気候は年間の最寒月平均気温によって異なり、熱帯の「モンスーン気候」または温帯の「温暖湿潤気候」となります。また、生物学的にはオセアニアです。
■ 参考:小笠原の気候について

館内のお土産屋さんには「小笠原コーナー」もあり、現在は「東京のハワイ」ではなく「東京の小笠原」… いや、小笠原諸島は東京都小笠原村に属する東京の島です。

無人島だった小笠原諸島に最初に定住した人々は、ハワイからやって来たとされています。小笠原こそ「東京のハワイ」にふさわしいかもしれません。それではなぜ、小笠原は日本の領土となったのでしょうか。そうした歴史の背景を知るため、次に向かうのは東京海洋大学です。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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