石北本線 旭川から網走へ 開業までの歴史を探る|2020年→2021年 年末年始旅行記11

2020年→2021年 年末年始の旅

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今回は【2020年→2021年 年末年始の旅】旅行記その11をお届けします。

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旭川から石北本線で網走へ

旅の5日目。雪が降る北海道・旭川駅前からスタートです。

道の横に降り積もった雪は車の高さを超えています。

気温は-10度を下回っていました。前日はオロロンラインを15kmも歩きましたが、この天気だったら難しかったでしょう。

こんなに寒く雪の多い場所ですが、札幌に次ぐ北海道第2の都市とも言われる旭川。2020年の国勢調査における人口は約33万人となっています。

旭川の本格的な開拓は1896年、明治政府が旧陸軍第7師団を置いたところから始まります。日清戦争直後、1895年に締結された下関条約の内容の一部を、ロシア・フランス・ドイツの3国が反対。日本はこれを受け入れる一方で、「臥薪嘗胆」というスローガンの下、ロシアとの戦争に向けた準備を進めました。

そこで旭川は北方警備の中心、いわゆる「軍事拠点」となったのです。旭川に旧陸軍第7師団がやってきたのと同じ年、北海道鉄道敷設法が公布され、建設が決まった路線のひとつが、前日乗車した宗谷本線

また、千島 ・オホーツク海方面からのロシアの攻撃に対応するための防衛前線と考えられていた網走への交通手段の確保も急務でした。すでに1890年、網走刑務所に送り込まれた1,200人もの囚人の手によって、北見峠を超える道路(現:国道333号線)は完成していましたが、それでも鉄道が必要とされていたのには、いくつか理由があります。

その鉄道の完成形が1932年に全線開業した、現在の石北本線です。この日は1日列車を乗り継いで、網走まで向かいながら、少々複雑な路線の歴史に触れてみたいと思います。

9時19分発、石北本線・上川行き(右の列車)に乗車。お隣のホームには、キハ40を改造したJR北海道の観光列車「山明号」が停まっていました。

今は全列車が旭川駅まで乗り入れていますが、石北本線の正式な起点は旭川駅ではなく、2つお隣の新旭川駅です。

新旭川駅は、先に開業していた宗谷本線の新しい駅という形で、1922年に開業し、ここから石北線が愛別駅まで開業。その翌年には上川駅まで延伸されました。

旭川駅から上川駅までは1時間ほど。旭川駅周辺は都市の景色でしたが、気付けば車窓には雪原が広がっていました。

上川駅に到着。次の列車まで約40分あるので、駅の周辺を少し歩いてみます。

1895年に和歌山・岐阜・愛知からの団体移住者が開拓した愛別村、そこから分かれて1924年に誕生した町。スキージャンプ・高梨沙羅選手の出身地のようで、駅には横断幕が掲出されていました。

大雪山の麓・層雲峡温泉への玄関口でもあります。層雲峡にあるセブンイレブンが高梨選手の実家になるそうです。

ダンプカーには大量の雪が積まれていました。これも北国ならではの光景でしょうか。

日本最長の駅間区間へ

上川駅の次は遠軽駅へ向かいます。

石北本線は全線が「単独では維持することが困難な線区」と発表されている路線です。上川駅から先の普通列車は1日2本しかありません。

乗車するのは「道北・流氷の恵み」とラッピングされたキハ40。

車内はとても綺麗ですが、乗客はほとんど乗っていません。

2両編成になっており、後方は普通のキハ40でした。

列車は11時10分に上川駅を出発。次の白滝駅までの距離はなんと37.3km。白滝駅に到着するのは12時前です。かつては上川駅から白滝駅の間にいくつか駅がありましたが、それらが廃止となったことで、現在同区間は青函トンネル区間を除く、在来線で日本最長の駅間となっています。

列車は瑠辺志部川と並行しながら、山の中へと入っていきます。

上川駅を発車してから15分ほど、列車は案内もなく、駅のない場所でゆっくりと止まりました。外の様子を確認すると、運転席のドアにハシゴがかけられ、関係者と思われる方々が乗ってきました。

ここは中越信号場。かつての中越駅にあたり、保線・除雪の作業員の方々の事務所になっているようです。そしてここから白滝駅までが、現在の石北本線で最も開業が新しい区間となります。

石北本線で一番新しい区間 中越~白滝

中越信号場から15分ほどで上越信号場に停車。

この先列車は全長4,356mの石北トンネルを通過し、北見峠を越えます。上越信号場も元々は駅で、石北トンネル建設の際に水や石炭を供給する重要な拠点になっていました。

上越信号場でも作業員の方々の乗り降りが行われて出発。間もなく列車は長いトンネルに入り、こちらはトンネルを抜けた後の景色。

国境(石狩から北見)の長いトンネルを抜けても、ひたすら銀世界が続きます。

ここでつい寝てしまい、目が覚めると、列車はすでに白滝駅を通過しており、下白滝信号場に停車していました。反対からやって来た列車は「特別快速きたみ」です。

白滝駅の住所は遠軽町。全国の市町村の中で9番目に大きいな町で、遠軽駅までは40km近く離れています。

丸瀬布駅には「SLと昆虫のまち」という看板が設置されていました。これは駅から車で15分ほどの場所にある、丸瀬布森林公園が由来と思われます。この公園には【雨宮21号】という蒸気機関車が運行され、【昆虫生態館】という施設もあります。

12時半過ぎ、終点の遠軽駅に到着しました。

石北本線全通の背景に遠軽町あり

旭川から網走へアクセスする手段として建設が決まったはずの石北本線ですが、旭川から網走に向かって、順番に建設が進められたわけではありません。

現在の石北本線の中で最初に開業したのは、1912年の野付牛(現在の北見駅)~網走です。野付牛駅はすでにこの前年、池田駅からやって来る網走線の終着駅として開業していました。

当時の北見周辺の鉄道開業状況を整理するとこんな感じ。旭川~上川間の開業が1923年なので、それより10年近くも前に、北見から石北本線の建設は始まっていたのです。

そして、1915年に遠軽駅が開業。遠軽町の開拓は、駅の開業よりも前の1987年、キリスト教主義の大学を設立するという夢を掲げた移民団がやって来たことが始まりです。

こちらは駅前の景色。すでに道路はありましたが、当時はまだ車がありません。歩きや馬で移動していた人々にとって、悲願の鉄道開通だったことが想像されます。

その後はオホーツク沿岸から名寄へ向かう路線が整備されま、名寄本線が開業しました。行政的にはこれで旭川と網走が鉄道で繋がったのでOKだったと思いますが、NOを出したのが遠軽町民(を中心とした北見地方の人々)でした。

かつては遠軽駅の0番線から名寄本線が出ていました。名寄本線を利用して旭川まで行く場合、片道8時間を要したそうです。また、合併前の白滝村には1912年に入植した紀州(和歌山)の団体がおり、彼らの利便性向上のためにも、北見峠を越えるルートの建設が求められました。

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旭川から上川までは1923年に開業しましたが、第一次世界大戦と関東大震災などによる不況から、工事の話は一旦ストップ。しびれを切らした遠軽の有志らは、1924年に東京を訪れ、鉄道省をはじめ国会や政党本部、その他関係機関に陳情を繰り返しました。彼らはカボチャ弁当を食べながら活動していたことから、「カボチャ団体の陳情」として、当時のメディアなどでも報じられたそうです。

その活動が功を奏し、翌年から現在の石北本線ルートの工事が始まり、1932年に全線開業となったのです。つまり、北海道の鉄道は開拓や軍事、資源の運搬が目的で建設された場合がほとんどですが、石北本線は「地域からの要請」ということで、事情が他と異なるのです。

遠軽の人々は今も鉄道を利用しているのか

「そこに住んでいう人のため」に建設された路線の場合、採算が取れるかどうかは、沿線の人々が鉄道を利用するかどうかにかかっています。

こちらが遠軽町の人口。言うまでもありませんが、右肩下がりです。ただ、石北本線が完成したことで、名寄本線が廃止となったため、現在は北見・網走と旭川を最短で繋ぐ経路として役割を果たしています。

また「鉄道建設を要請しておきながら、まさか乗ってないってことはないよな…」と思い、乗用車数と人口から、乗用車保有率を計算してみると、周辺地域に比べて、遠軽町は乗用車保有率が低いことが分かりました。車を持っていないということは、やはり皆さん、鉄道を利用しているのでしょうか。

鉄道開通で栄えた北見

ということで、遠軽の次は北見を経由し網走へ。

時刻は13時前、網走に到着するのは16時です。

上川から遠軽行きとして運行してきた列車が、そのまま網走行きとなっていました。

引き続き雪の中を走ります。きっといつの間にか北見市に入っているはず。遠軽町も大きいですが、北見市は北海道内の市町村で最も大きな町で、日本でも4番目の広さとなっています。

14時半、北見駅に到着しました。

北見駅では30分ほどの停車時間があるということで、列車に荷物を置いたまま駅の外へ。昼食をゲットしに行きます。

北見はオホーツク圏の中心都市。駅前にはルートインと北見信金のビルがそびえます。

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明治以降の開拓、特に網走線の開通以降人口が増加し、農耕地の拡大による森林伐採で、農業も林業も生産量が急増。運搬業や加工業も成長しました。

まさに、明治政府が目指した鉄道による効率的な開拓の事例でしょう。2020年の人口は11万5千人。北見盆地で栽培される玉ねぎの生産量は日本一で、全国で生産される玉ねぎの2割が北見産です。さらに、ホタテの漁獲量も日本一という、一次産業が非常に強い町となっています。

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北見の名産品といえば「ハッカ」。駅のお土産屋さんにもハッカコーナーが設けられていました。1902年から栽培が始まり、昭和初期には世界市場の約7割を占めるまでに成長したそうです。その後は安価な合成ハッカの登場により衰退しました。

★参考:北見ハッカ記念館★

北見ハッカ記念館 〜Kitami Mint Memorial Museum〜

最近は、北見といえばカーリングで有名な町となりました。北見市常呂町のカーリング人口は5人に1人とも言われています。小栗祐治さんがカーリングを持ち込み、1988年に日本初の屋内専用施設が出来てから、常呂町にカーリング文化が根付いていきました。

北見市常呂町のLS北見というチームが、そのまま日本代表メンバーとして平昌オリンピックに出場すると、メダルも獲得し、一気に注目度が上がりました。

昼食を買うためにやって来たのは、駅前にあるセイコーマートです。

110円のパスタをゲットしました。前日の夕食も、このパスタの別の味でしたが、やはりコスパ最強です。

列車に戻り、網走へと向かっていきます。

緋牛内駅。この小さな駅舎に「ひうしない」という駅標が4つという、主張が強めの駅です。

北見から約1時間で網走駅に到着しました。本日の宿の最寄り駅は、ここからもう2駅先なので、列車を乗り換えます。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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