沖縄 波照間島の歴史~日本最南端の有人島はいつから日本最南端なのか|2016 旅行記2

島旅

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今回は「2016年 春 石垣島・波照間島旅行記」その2をお届けします。

★前回の記事は こちら

沖縄 波照間島に上陸

初めての沖縄旅行で日本最南端の島・波照間島に上陸しました。

まずは港から歩いて予約をしていた宿「西浜荘」へ。波照間好きな人には有名な宿です。

1泊2,000円は島内最安(当時)。しかも、白米は食べ放題です。八重山諸島の島々では、キャンプ・野宿が禁止されているので、必ず宿に泊まる必要があります。

こちらが部屋の様子。寝るときは布団を川の字にして並べて、男子大学生7人でも過ごすことが出来ました。

沖縄ではどんなに綺麗な家でも、ヤモリが住み着いているものですが、当時はそんなことを知らず。「おぉ、シャワー室にヤモリ、こんなことあるのか」と思って撮った1枚です。

こちらは「ゆんたく」をするスペース。ゆんたくとは沖縄の方言で「おしゃべり」のこと。沖縄のゲストハウスでは1人旅の方が多く、こうした共有スペースでおしゃべりしながら食事をしたりすることが文化のようになっています。

■ 参考:ゆんたくが楽しいゲストハウスに行ってきた

今回泊まった西浜荘も知る人ぞ知る宿ですが、こちらの【たましろ】も有名な波照間島の宿。「日本一汚い」「ご飯のボリュームが異常」など、旅先で様々な噂を耳にします。いつか泊まってみたかった宿でしたが、2023年に営業終了となりました。

日本最南端の有人島

宿で原付を借りることが出来たので、さっそく原付で島を散策します。

波照間島の1周道路は約9km。原付なら約30分で1周することが出来てしまう小さな島には、470人が暮らしています(2020年 国勢調査)。北緯24度に位置する日本最南端の有人島であり、「果てのうるま(サンゴ)」が島の名の由来です。

こちらは波照間駐在所。日本最南端の駐在所であることを示す、大きな日本地図が描かれているのが特徴です。

郵便局や商店など、様々な施設が「日本最南端」となっている波照間島。波照間島小中学校は日本最南端の学校。学校のブログが頻繁に更新されているので、そちらを見ると学校生活の様子が分かります。

■ 参考:沖縄本島にある日本最南端を巡る

島の南東部「高那崎」には、日本最南端平和の碑があります。ここが島で一番の観光スポットかもしれません。

しかし、本当の日本最南端の碑は、平和の碑の裏にあるこちらの石碑。平和の碑は、1994年に竹富町の終戦50周年を記念して建てられたもの。「日本最南端」と書かれている上に、本当の碑よりも立派なので勘違いされがちです。

最南端の碑へ行ったついでに立ち寄りたいのは、近くにある星空観測タワー。波照間島は北半球では観測が難しい「南十字星」が見られることで知られています。

星空観測タワーを訪れた目的は、星空観測ではなくこちら。タワーの受付で、日付入りの「日本最南端の証」を購入することが出来るのです(500円)。

いつから日本最南端の有人島なのか

ちなみに、波照間島は日本最南端の有人島ですが、日本最南端の島は沖ノ鳥島(東京小笠原村)です。

沖ノ鳥島が小笠原支庁の所管となったのは1931年のこと。なお、当時は日本がサイパンやグアム、ミクロネシア等を統治していたため、日本最南端は赤道周辺の島々にあるという認識だったと考えられます。

■ 参考:日本が南洋諸島を統治していた時代について

太平洋戦争の終戦直後は、北緯30度以南がアメリカの統治下となり、「屋久島」が日本最南端の島となりました。その後、1953年に奄美群島が返還された当時の日本最南端の島は「与論島」。1968年に小笠原諸島が返還されると、「沖ノ鳥島」が日本最南端の島、「母島」が日本最南端の有人島になったのです。

波照間島が日本最南端の有人島になったのは、沖縄県が本土復帰を果たした1972年のこと。沖ノ鳥島は1931年に小笠原支庁の所管となったことをきっかけに、小笠原諸島(Bonin Islands)のひとつとして日本領へ復帰しました。それでは波照間島は、いつから沖縄県に属しているのでしょうか。

八重山諸島と琉球王国の歴史

波照間島は「八重山諸島」のひとつに数えられます。八重山が初めて記録に登場するのは1390年のことです。

この時期の各島々がどのような状況で、どの勢力が力を伸ばしていたのかなど、詳細を知ることが出来る記録はほとんどありませんが、1390年に宮古・八重山が沖縄本島で勢力を伸ばしていた中山の王・察度に入貢したとされています。

■ 参考:琉球王国成立以前の沖縄本島における勢力争い

下田原城跡は1400年代の遺跡。この近くにある「下田原貝塚」は約3,700年前の八重山最古の遺跡で、波照間島には紀元前から人が住んでいたと考えられています。島内には他にもいくつか遺跡があり、村の有力者が居住していたという伝説があるそうです(記録はない)。

■ 参考:1

1400年代中期の八重山は、各村の英雄が民衆を統括しながら、それぞれ勢力を誇示し、お互いに競っていたことから「群雄割拠の時代(英雄の時代)」と言われています。一方琉球王府は、第二尚氏王統の第三代・尚真王の時代(1477年~)に統一政治の基礎が固められ、階級国家として段階的に成長。強大な武力を背景に中央集権体制を構築しました。

この頃、波照間島に誕生した人物がオヤケアカハチです。アカハチは17年~18年ほど島で生活した後、石垣島へ移住。八重山の英雄たちと戦う中で勢力を伸ばし、やがて琉球王府に抵抗するようになりました。

琉球王府は南方諸島との貿易をアカハチが独占することを恐れ、1500年にアカハチを殺害(オヤケアカハチの乱)。これにより琉球王国による宮古・八重山支配が確立し、王府の一区域に組み込まれることとなったのです。

日本最南端の島の変遷

「日本最南端の島」の歴史を語る上では、『奄美群島』の歴史も欠かせません。

奄美群島は、トカラ列島最南端の島・横当島(無人島)と、沖縄本島の間に浮かぶ島々の総称。今も人々が暮らす奄美大島・加計呂麻島・請島・与路島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島といった島々の歴史は古く、縄文時代の遺跡が発掘されている島もあります

宝島

奄美市のホームページによると、日本の歴史書に「奄美」の名が登場するのは600年代後半から700年代。当時は大和朝廷に産物を献上していたことに加えて、朝廷からの遣唐使も奄美大島経由で、中国大陸へ渡っていたそうです。大和政権も鹿児島県域の島々を認識していたようなので、この時代から奄美大島は日本の一部だったと言えるでしょう。

1300年代に沖縄が三山時代を迎えると、奄美群島のうち与論島と沖永良部島は、沖縄本島北部に拠点を置く北山の勢力下に入りました。1429年に琉球王国が成立すると、徳之島・奄美大島・喜界島もその支配下に入ったため、トカラ列島・宝島が日本最南端かつ日本最西端の有人島だった時代があるのです。

1609年、薩摩藩の初代藩主となった島津家久(忠恒)が琉球王国へ侵攻。これ以降、薩摩藩は奄美群島を領有し、現在の沖縄県にあたる範囲を「琉球王国」として支配下に置いたため、日本最南端かつ日本最西端の有人島は『宝島』から『与論島』へと移りました。

■ 参考:島津氏の琉球侵攻について

奄美の自動販売機 ラインナップは沖縄と同じ

なお、公的には奄美群島も引き続き琉球王国の一部とされ、島民は伝統的な社会構造を維持しましたが、政治的・行政的な権限は、琉球王府ではなく薩摩藩が握るという体制だったそうです。

■ 参考:2

奄美には沖縄名物「ステーキハウス」もある

その後、琉球処分により沖縄県が設置されると、日本最南端の有人島は『波照間島』へ、日本最西端の有人島は『与那国島』へと移りました。また、奄美群島が大島郡として鹿児島県に編入されたのは、沖縄県設置から約3カ月後の1879年6月30日のことです。

南波照間島(パイパティローマ)も存在する?

岩で作られた高さ4mにもなる高台は「コート盛」。日本が鎖国をしていた時代、薩摩藩支配下の琉球王国時代に作られ、ここから海上の船を監視していたそうです。沖縄の島々には、こうした「火番盛」が点在しています。

江戸幕府は全国各地から「年貢」を徴収しましたが、宮古・八重山に課されたのが「人頭税(1637年~1902年)」です。役人や身障者を除く15歳から50歳までの全ての男女に納税義務が課せられ、人々は米や布を生産するため、朝早くから夜遅くまで働かされたと言われています。

■ 参考:2

竹富町役場の年表によると、人頭税の重圧に堪えられず、1648年に波照間島平田村の村民男女40人が、楽園「南波照間島(パイパティローマ)」を目指して船出したそうです。なお、南波照間島の存在は現在も確認されておらず、伝説の島として語り継がれています。もし、南波照間島が存在し、そこに人が住んでいるならば、そこが日本最南端の有人島です。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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