佐々木小次郎の墓が山口県阿武町にある理由~山陰に残る潜伏キリシタンの遺跡|2026 旅行記

山口県

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「2026年 山口県阿武町 佐々木小次郎の墓に行く旅」の旅行記をお届けします。

佐々木小次郎の墓(山口県阿武町)に行く

2026年3月20日、早朝に東京駅から新幹線に乗り新山口駅へ。新山口駅でレンタカーを借りてやって来たのは「道の駅阿武町」です。

道の駅阿武町は「道の駅発祥の地」と言われています。なお、「発祥の地」を名のるのは、阿武町だけではありません。例えば、新潟県の「豊栄」は道の駅制度が始まる前、1988年に開業した施設で、こちらも「道の駅発祥の地」の石碑を掲げています。

道の駅阿武町

さらに島根県の「掛合の里」、鳥取県の「大栄」も、それぞれの由緒から道の駅第1号を主張しており、道の駅発祥の地はひとつに定まっていません。

まずは腹ごしらえ。道の駅の中にある「千代丸食堂」で、千代丸ふぐ叩き丼(2,100円)を頂きました。地元の港で水揚げされたフグを、たたきにしてのせた丼です。ランチにしては少しお高めですが、ボリュームは満点。大満足でした。

ちなみに、フグといえば下関が有名ですが、萩で獲れる天然の「まふぐ」は〈ふぐの女王〉とも呼ばれ、市場に出回るのはすべて天然もの。とらふぐとはまた違う名物として親しまれています。阿武町は萩市に、陸側の三方を囲まれた町です。

■参考:下関とふぐ

早朝の新門司港から無料バス乗車!門司から下関へ フグのまちを歩いて観光|2021 旅行記4
早朝の新門司港に到着しましたが、北九州の市街地から遠く、周辺には何もありません。そのため、名門大洋フェリーでは船の到着に合わせて、門司駅経由小倉駅行きの無料バスを運行しています。今回はこのバスで門司駅へ移動し、電車で下関駅にやって来ました。下関といえばフグが有名。歩いて観光していてもフグ一色でした。
海に浮かぶ島々も萩市

今回、阿武町にやって来た目的は『佐々木小次郎のお墓を見ること』。佐々木小次郎といえば、1612年4月、巌流島(山口県下関市船島)で宮本武蔵と決闘したことで有名です。

佐々木小次郎が仕えた細川忠興とキリシタン

【佐々木小次郎の墓】があるのは、道の駅から車で20分ほどの場所に位置する福賀集落。

小次郎の妻ユキが、巌流島で敗れた小次郎の「遺髪」を持って同集落へ逃れ、墓石を建てたと伝えられ、現在もそのお墓が残っています。ここで興味深いのは、彼女がキリシタンだったという点です。

細川忠興と細川ガラシャ(イメージ)

決闘当時、小次郎は豊前小倉藩の藩主・細川忠興(1563〜1646)に剣術指南役として召し抱えられ、藩士たちに武芸を教えていたと伝えられます。そして、忠興の正室(正式な妻)こそ、日本史上もっとも名高いキリシタンの一人、細川ガラシャ(明智光秀の三女・玉)でした。

■参考:1

時は豊臣秀吉の世。諸大名は、半ば人質の意味も込めて、自らの居城とは別に政治の中心である大坂にも屋敷を構え、正室や家族を住まわせるのが習わしだった時代です。丹後(現在の京都府北部)に本拠を置く忠興も、大坂玉造に細川屋敷を構え、そこにガラシャを住まわせていました。

■参考:2

1600年、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐へと出陣することに。留守を預かる家臣たちには、「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻ユキを殺し、全員切腹して、我が妻とともに死ぬように」と命じていました。その危惧は、やがて現実となります。

■参考:3

ガラシャが身を置く大坂玉造の細川屋敷は、石田三成の軍勢に包囲されました。人質となることを迫られたガラシャは、これを拒んで死を選びます。しかし、キリシタンである彼女には自害が許されません。そこで家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせ、ガラシャは38歳その命を絶ちました。

忠興とセスペデス

ガラシャの死後、関ヶ原の戦功により、忠興は豊前一国などおよそ40万石を与えられ、九州の大名となります(当初の居城は中津で、まもなく小倉城を築いて本拠を移しました)。忠興は、ガラシャの受洗を導いた宣教師セスペデスを領内に招き、1601年に教会を設け、小倉では彼女の命日ごとに追悼ミサを営ませました。

■参考:4

小次郎と妻ユキ

このように、九州北部——とりわけ豊前・豊後は、キリシタンの一大拠点だったのです。小次郎がキリシタンであった妻ユキと結ばれたのも、こうしたキリシタンの根づいた土地に身を置いていたからこそ、と考えれば自然でしょう。ただし、小次郎自身がキリシタンだったという話は、どこにも伝わっていません。

佐々木小次郎の墓が阿武町にある理由

妻の生前こそキリスト教に冷淡だった忠興は、その死後は彼女を篤く弔い、信仰を黙認していました。

しかし、1611年のセスペデスの死を境に禁教へと傾き、1614年の全国禁教令を機に、豊前は弾圧の地へと変わっていきます。小倉・中津では、細川家が肥後へ移る1632年までの間に、多くの殉教者を出しました。

阿武町の景色

ユキが、小次郎との子を妊娠した状態で小次郎の遺髪を抱き、多くの信者とともに山陰へと逃れたと伝わるのは、ちょうどこの弾圧が始まろうとする頃、決闘直後のことだったそうです。

小次郎の妻ユキ

阿武町にやって来たユキは、正法寺(現在の太用寺)に身を寄せて出家し、潜伏キリシタンとして生きることになります。夫・小次郎の冥福を祈り、生涯その供養に身を捧げた表向きの姿は、信仰を隠すための最良の隠れ蓑でもあったのでしょう。

■参考:5

やがて幕府は、キリシタンを見つけ出すために寺請制度を整えていきました。すべての人が、どこかの仏教寺院に属している(=檀家である)ことを証明し、「自分はキリシタンではない」と示さねばならない仕組みです。こうした世の中でキリシタンが生き延びるには、仏教に入り込んで、疑われないようにするのが最も確実だったとされています。

■参考:6

いざ佐々木小次郎の墓へ

彼女にとって出家は、この土地に居着き、墓を守り、そっと信仰を続けても、誰からも咎められずにいられる「後ろ盾」だったのです。外に見せる所作は「仏式の供養」、内に抱く信仰は「キリスト教」。人前では仏教の尼(出家した女性)として夫を弔いながら、墓のそばには六面石やマリア観音といったキリシタンの印を、そっと残していました。

駐車場はない

隠さねばならなかったのは、信仰だけではありません。もし夫を悼んで、墓石に堂々と「佐々木小次郎」と刻めば、「あの巌流島で敗れた小次郎の縁者がここにいる」という看板になってしまいます。もし小次郎との繋がりが知れれば、危険は二重でした。

林の中を数分歩く

ひとつは、生まれた子どもが決闘に起因する揉め事に巻き込まれること。もうひとつは、一族を手がかりにキリシタンの信仰まで嗅ぎつけられることです。小次郎との繋がりを隠すため、彼女は墓石に「古志らう」という名前を刻みました。

キリスト教の弾圧から逃れた潜伏キリシタンの里として名高いのは、長崎県の五島列島です。しかし、五島がその避難先になるのは1700年代末以降のこと。ユキの逃避(1612年前後)から180年以上もあとの出来事で、彼女の時代にはまだ逃げ込む先ではありませんでした。

山陰に残る潜伏キリシタンの遺跡

実は山陰には、古くからキリシタンの根が張っていました。

例えば、萩の周辺には潜伏キリシタンの歴史が伝わり、殉教者が出たことも知られています。九州が弾圧の震源地と化し、五島もまだ避難地になっていない時代に、都から遠く、山深い山陰は、身を隠すのに適した土地だったのです。

ただ、阿武町にあるのが「本当に小次郎の墓なのか」という点については、史料がなく、地元の言い伝えにすぎません。小次郎という人物自体、記録の乏しい半ば伝説の人であり、その墓とされる場所も各地に点在しています。さらに、1960年代の山火事の後、この墓が所在不明となった時期もあったそうです。

■参考:7

小次郎の墓の横にある六面観音

それとは別に、確かなものがあります。

  • 周囲に点在するキリシタン系の石塔
  • 数多くの佐々木姓の墓
  • 今も地区内で「佐々木」を名乗る、末裔とも言われる数軒の家々

これらはいずれも、実在する物であり人です。伝説の真偽がどうあれ、この辺鄙な山あいに潜伏キリシタン的な共同体が確かにあったことを、静かに物語っています。

小さなお墓なので見学にかかる所要時間はほんの数分です。近くに湧き水が出ていたので、これを味見してみると、まあ美味しい。

阿武の鶴酒造

この水は阿武町にある伊良尾山から湧き出るもので、阿武町で作られる日本酒に使われています。

道の駅阿武町から見た夕陽

【佐々木小次郎の墓】の実体は、キリシタンだった妻ユキらが山陰の奥に築いた供養と信仰の跡=潜伏キリシタンの遺跡であり、小次郎伝説はその上にかぶせられたロマンの衣装と考えるのが良さそうです。

.

今回はここまで。本日もありがとうございました。

★こちらもおすすめ★

長崎はイエズス会の領地だった?日本へのキリスト教伝来の歴史|観光アイデアノート vol.17
五島列島には51のカトリック教会があり、 2018年には『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』が世界文化遺産にも登録されました。潜伏キリシタンとは、キリスト教信仰が禁じられる中で、密かに信仰を続けた人たちのこと。今回は【日本人とキリスト教の出会い】から【キリスト教が禁じられるまで】の流れを確認します。

今回山口県阿武町にやって来た目的は『佐々木小次郎のお墓を見ること』。小次郎の妻ユキが、巌流島で敗れた小次郎の「遺髪」を持って同集落へ逃れ、墓石を建てたと伝えられ、現在もそのお墓が残っています。その実体は、キリシタンだった妻ユキらが山陰の奥に築いた供養と信仰の跡=潜伏キリシタンの遺跡ともいえるでしょう。

阿武町,佐々木小次郎,墓,キリシタン,旅行記

コメント

タイトルとURLをコピーしました