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今回は「沖縄ドライブ旅2020」その2をお届けします。
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沖縄そばとは何か?
古宇利島から車を走らせ、名護市にある沖縄そば屋「大家(うふやー)」さんにやって来ました。この日の昼食は沖縄そばです。
沖縄そばの最大の特徴は、「そば」という名が付きながらも、そば粉が入っていないという点。麺は小麦粉とかん水から作られており、汁は豚骨やかつおのだしが効いています。
中国の「琉球交流史」によると、琉球国王の四十九日供養で「粉湯(中国語で、汁そばの意味)」が献上された(1534年)とあり、これが沖縄そばの原型なのだそう。現在の沖縄で「そば」と言えば『沖縄そば』。そば粉を使ったそばは『日本(大和)そば』と区別されています。
■ 参考:1
なぜ沖縄でそば粉の蕎麦が広まらなかったのでしょうか。これを知るためにはまず、日本(大和)そばの歴史を知る必要があります。
歴史を調べて分かったこと
そば粉の原料である「ソバ(の実)」の原産地は中国と言われており、現在は中国やロシアを中心に、世界各地で栽培されています。つまり、ソバを使った料理は世界中にあるのです。
日本でソバ栽培が始まったのは縄文時代と言われています。鎌倉時代以降、そば粉を使った料理は増え、そば粉を水で練った「蕎麦がき」や、おやき・せんべい・つみれ・すいとん・饅頭・団子として食されたそうです。
■ 参考:2
朝鮮半島からやって来た僧侶によって、蕎麦のつなぎに小麦粉が使われることが伝授されたのは江戸時代以降。現在の麺状になった蕎麦(=そば切り)発祥の地には諸説ありますが、長野県や山梨県という説が有力なようです。
■ 参考:3
江戸時代は大名の定期的に配置替えがありました。蕎麦好きの大名が新しい国へ移動するとき、蕎麦職人を同行させ、各地の名物蕎麦が誕生したと言われています。具体的な事例として紹介されているのは以下の通りです。
- 1638年:松田直政が信州藩から松江藩へ(出雲そば誕生)
- 1643年:保科正之が高遠藩(信州)から会津藩へ(会津そば誕生)
- 1706年:仙石政明が上田藩(信州)から出石藩(但馬)へ(出石そば誕生)
■ 参考:4
そば切りは参勤交代などを通じて江戸にも持ち込まれました。江戸の人口増加とともに、そば切りの消費量も増加。今では日本の伝統的な食文化となったのです。
蕎麦やラーメンとの違い
江戸時代の沖縄は薩摩藩の支配下ではありながらも、『琉球王国』として独立していました。大名の配置替えも参勤交代もなく、そば切りの製法が入ってくることがなかったと考えられます。
沖縄正麺協同組合によると、1879年(明治時代)の那覇に料理店や料亭の類は無かったそうです。沖縄県内初の支那そば店「観海楼」が開業したのは1902年。琉球新報の広告で「那覇市警察署下り」に「支那そばや」が開業したと紹介され、これが最も古い沖縄そば屋の記述と言われています。
つまり、沖縄そばのルーツは、そもそもそば粉を使ったそばではなく「支那そば=ラーメン」なのです。ラーメンは沖縄そばと同じく、小麦粉とかん水から作られています。
新横浜ラーメン博物館によると、1859年の開港をきっかけに日本へ様々な食文化が流入。その中にはラーメンのルーツである中国の麺料理もありました。1884年の北海道・函館には「南京そば」という、中華麺を使った料理があったそうです。
南京そばはその後、「支那そば」「中華そば」へと名前を変え、1958年の「チキンラーメン」発売を機に、日本にカタカナの「ラーメン」が普及しました。南京・支那・中華はいずれも中国を指す言葉です。
明治時代から大正時代にかけて沖縄で提供されていた支那そばは、本土のものとは少し異なっていたのかもしれません。警察から「琉球すば(「すぱ」は「そば」の沖縄方言)」と呼ぶように指導されたこともあったそうです。
中国のそばを「中華そば」と呼ぶならば、沖縄のそばを「琉球(沖縄)そば」と呼ぶのは自然な流れです。また、チキンラーメンが販売された当時、沖縄は米軍統治下にあり、中華そばをラーメンと呼ぶ日本の文化が入ってこなかったと考えられます。
沖縄が米軍統治下になかったら、現在の沖縄そばは「沖縄ラーメン」になっていたかもしれません。沖縄が本土へ復帰してから4年後の1976年、公正取引委員会は沖縄正麺協同組合に対し、「沖縄そばはそばではない(そば表示はNG)」という通達を出します。
これに対し、県民に長く親しまれてきた「沖縄そば」を守るための交渉が続き、1977年10月17日、沖縄そばは正式に「そば」として認められました。そして今では、定番の沖縄グルメとして、県民や観光客に親しまれています。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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