五能線のルーツは西浜街道(国道101号)にあり!津軽藩の交易と北前船の歴史|2023 旅行記3

旅の思い出

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今回は「2023年 夏 青森・北海道旅行記」その3をお届けします。

★前回の記事★

五能線のルーツは西浜街道(国道101号)にあり

地元の有力者らによる誘致運動によって開業した五能線。

しかし、本州の隅っことも言えるこの地域に、なぜ鉄道が必要だったのでしょうか。その背景には中世以降の津軽藩と北前船の歴史がありました。

十三湊の繁栄と津軽藩(弘前藩)の成立

今回の旅で訪れたのは、白神山地の十二湖ですが、津軽半島の北西部には「十三湖」という潟湖(せきこ)があります。

五能線の車窓から

鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した豪族・安東氏は、十三湖の西岸に作られた十三湊を拠点にしました。これにより十三湊は、南方からの陶磁器や米など、北方(=蝦夷ヶ島=北海道南部)からの海産物を扱う国際貿易港として繁栄したそうです。

■参考 1

深浦町・大岩から

1400年代に入ると、北奥州で勢力を拡げていた南部氏が台頭。1442年、14代南部義政に攻められた安東盛季・康季が十三湊を追われ、蝦夷地へ逃れます。それ以降も津軽西海岸では安東氏と南部氏の抗争が続き、南部氏は久慈郡の領主・南部光信を派遣。光信によって、鯵ヶ沢に種里城が築城されました(1491年)。

■参考 2

津軽富士とも呼ばれる岩木山

光信はさらに1502年、子の盛信の居城として、岩木山麓に大浦城を築城。光信自身は初代大浦氏を名乗り、1526年に死亡するまで種里城にとどまりました。

岩木山からの景色

大浦氏が南部氏の支配から独立したのは5代目・為信の時代。豊臣秀吉から津軽郡支配を認められ、為信が津軽藩(弘前藩)の初代藩主として津軽氏を名乗るようになったのは1590年のことでした。

こうした背景から、初代大浦氏(光信)が眠る種里城は津軽藩発祥の地と言われています。津軽氏の居城は1594年に大浦城から堀越城へ。そして、次の移転先として1611年に築城されたのが、有名な弘前城です。

交易の拠点は西浜街道が通る鰺ヶ沢・深浦へ

十三湊の繁栄は、南部氏の台頭と安東氏の衰退によって終わりを告げました。

津軽藩が領内の重要湊と定めたのは深浦・鰺ヶ沢・十三・青森の四浦。特に鰺ヶ沢は、西浜街道が通っているという利便性から、津軽統一を果たした為信もよく利用していたそうです。

■参考 3

また天然の良湊を形成する深浦は、安東氏が十三湊を拠点に活躍した時代から、北方と日本海沿岸の各湊を結ぶ北国海運の重要な寄港地として利用されていました。

■参考 4

現在、弘前~鯵ヶ沢~深浦は国道101号線と五能線によって結ばれています。この経路のルーツにあるのは、江戸時代以前から利用されていた西浜街道なのです。ちなみに、国道101号線のひとつ前は沖縄の国道58号線。59番から100番は欠番となっています。

★参考:国道58号線について★

津軽藩の交易と北前船の歴史

西浜街道は弘前から鰺ヶ沢湊、深浦湊、大間越を経て秋田領へ通じる重要な街道で、弘前藩と松前藩は参勤交代の通路としても使用しました。

大間越に関所があった

1665年、四代藩主信政が参勤交代路を羽州街道(矢立峠を越えて秋田領へ入る経路)へ変更。西浜街道の地位は下がった一方で、鰺ヶ沢は引き続き水運・海運の拠点となりました。その背景にあるのが北前船です。

■参考 5

五能線の車窓にも田んぼが広がる

江戸の経済が安定し、人口が増加するにつれて、人々の主食である米の不足が課題となりました。米どころが多い奥羽(東北)地方と江戸を結ぶ航路を整備するため、幕府は河村瑞賢を派遣。1670年に阿武隈川河口(福島県)から江戸へ向かう東廻り航路、1672年に酒田(山形県)から下関を通り大坂・江戸へ向かう西廻り航路が開設されました。

■参考 6

五能線の車窓から 現代の北前船・新日本海フェリーが見えました

黒潮の流れに逆らう形で航行する東廻り航路に対し、西廻り航路の方が荷物を安く運ぶことが出来たため、1700年代以降は、西廻り航路の利用が盛んになります。北前船の定義には諸説ありますが、西回り航路のことを「北前船」と呼ぶことが多いようです。

■参考 7

■参考 8

★参考:日本海は意外と穏やか★

十三小廻りが整備される

弘前~鰺ヶ沢湊には「十三小廻り」と呼ばれる水運ルートが整備されました。

津軽地方の中心を南から北へ流れる内陸輸送の大動脈・岩木川。各地の川湊に集められた米や木材は、岩木川を下って十三湊まで輸送。十三湊からは小型船で七里長浜沖を南下し鰺ヶ沢湊へ。そして千石船などに積み替えられて上方(京都や大坂)へ運ばれました。

艫作駅の屋根の上には船が載っている

鰺ヶ沢からは、領外の廻船がもたらす木綿・荒物・紙・砂糖・瀬戸物等の生活必需品が、逆ルートで領内へ運ばれたそうです。

■参考 9

青森港の発展と鉄道の開通

江戸時代、松前藩は北前船の入港を松前・江差・函館に限定していました。

深浦駅にあった北前船の模型

明治時代になるとその制限が無くなったことに加えて、帆船の改良もあり、北前船は全盛期を迎えた一方で、鯵ヶ沢湊は衰退へ向かいます。

青森港にて 船に向かって線路が伸びている

江戸時代末期の1865年、幕府が青森港(と佐井村港)を北海道への渡航地に指定。1873年には青森~函館間に蒸気船が就航し、1891年に上野~青森を結ぶ鉄道「東北本線」が開通。東京~東北・北海道は鉄道と船で繋がり、青森港が物流の拠点となりました。

■参考 10

現代も深浦や鰺ヶ沢周辺にはこうした蔵が多く見られる

さらに、鉄道開通によって北前船も衰退。北前船は価格情報を独占することで、各地で物産を安く仕入れ高く売り、利益を得ていましたが、そうしたビジネスモデルも崩壊。1905年に日露戦争が勃発し、北海道周辺の海が危険にさらされると、北前船は姿を消しました。

2020年 国勢調査より

その後、鰺ヶ沢では漁業が町の産業の中心に成長したようですが、現在は漁業よりも農業が盛んなようです。

青森と秋田を結ぶ通年通行可能な一般道は、現在でも矢立峠を経由する羽州街道(現:国道7号線)と日本海周りの西浜街道(現:国道101号線)だけ。1905年に全通した奥羽本線は、羽州街道沿いに建設されたため、西浜街道を補完する鉄道として、五能線を誘致するに至るのは自然な流れだったと言えるでしょう。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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