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今回は「2026年 沖家室島(周防大島町)旅行記」をお届けします。
東京から広島空港経由で周防大島へ
2026年7月19日の朝6時過ぎ、羽田空港にやって来ました。この日の目的地は、山口県の周防大島町です。

搭乗する便は7時25分発のJL253「広島行」。運賃は空港使用料を入れても片道13,000円(税込)ほど。東京駅から広島駅まで新幹線(指定席)を利用した場合は2万円を超えます。航空券を購入するタイミング次第では、東京ー広島間は飛行機の方が安いのです。
■参考:飛行機で羽田から広島へ


8時45分、定刻通り広島空港に到着しました。ここからは高速バスで広島駅へと向かいます。所要時間は40分。東京駅から広島駅までの所要時間、そして移動の利便性は、新幹線の方が多少早くて楽です。
■参考:新幹線で東京から山口県へ


子どものトイレや授乳があったので、少し空港でのんびりした後、9時50分発のバスに乗車。なお、このバスの予約は出来ず、先着順となっています。料金は1,500円。支払いには交通系ICカードや、クレカのタッチ決済も利用可能です。

10時50分、広島駅新幹線口に到着。定刻よりも10分ほど遅れました。予定の列車に乗るため、急いで山陽本線のホームへと向かいます。

何とか予定の列車に乗ることが出来て、11時14分、広島駅から3つお隣の海田市駅に到着。周防大島とは逆方向ですが、少しだけ寄り道をします。この駅にやって来た目的は「国道31号線」です。
28歳のときからスタートした【年齢と同じ数字の国道を歩く旅】。今年は31歳なので、海田市駅から10分ほど歩いて、国道31号線の起点・大正交差点を目指します。
■参考:30歳で国道30号線を歩く


到着しました。大正交差点は国道2号と国道31号が分岐する地点です。国道31号は、この交差点から終点の呉市までを結ぶ約35kmほどの短い路線。この道の歴史は、呉が軍港として歩んだ道のりと重なります。

呉は、周囲を山と瀬戸内の島々に囲まれ、軍事上の機密を守るのに適した地形でした。明治時代、日本海軍の拠点として選ばれたことをきっかけに、「東洋一の軍港」とも称される街へと急速に発展。軍港として拡張が進むにつれ、呉と広島を結ぶ道の重要性も高まり、国道31号線が誕生したのでした。
■参考:1

ということで、国道31号線を少しだけ歩いて、再び海田市駅へ。駅前にあったスーパー「ハローズ(瀬戸内海エリアのチェーン店)」で購入した、〈にぎりサラダ助六セット(430円)〉がこの日の昼食です。恐らく東京のスーパーだったら、このお値段では買えません。
周防大島での移動は車が便利
山口県の東端、瀬戸内海に浮かぶ周防大島町。「周防大島」という名前の島があるわけではなく、主島である屋代島と他5つの島々に人々が暮らしています。
屋代島は本州と橋で繋がっているため、車で渡ることが可能です。橋のそばには、山陽本線の大畠駅があり、そこから島に渡るバスも出ています。ただ、瀬戸内海の有人島で、3番目の面積を誇る大きな島なので、島内の移動は車が圧倒的に便利でしょう。
■参考:日本の有人島の面積と人口


ということで、今回は岩国市内でレンタカーを予約していました。海田市駅からレンタカー屋がある「川西駅」までは電車で移動。

12時49分、岩国駅に到着。ここで岩徳線に乗り換える予定でしたが…

倒木の影響で、岩徳線が運転見合わせとなっていました。

川西駅まで同じ線路を走る第3セクター路線・錦川清流線は、通常通り運行しているとのことで、こちらの列車に乗車。ただ、次の出発は14時26分。岩国駅で1時間半以上待つことになりました。

14時35分、ようやく川西駅に到着。

駅前にある「Jネットレンタカー 岩国店」で、無事に車を借りることができました。ここから、本州と周防大島を結ぶ大島大橋までは約26km、40分ほどの道のりです。
■参考:周防大島の名物「みかん鍋」を食べる

周防大島のハワイ移民資料館とサタフラ
「瀬戸内のハワイ」とも称される周防大島に上陸してから数日後、片添ヶ浜にやって来ました。

周防大島で最も有名なビーチなので、ハワイでいえば「ワイキキ」でしょうか。もっとも、実際の島は、のどかな瀬戸内の田舎。車で走っていても、ハワイを感じる瞬間は、正直あまりありません。それでもこの島には、日本で初めてのハワイ移民資料館があります。

資料館は、福元長右衛門という人物の邸宅だった建物を再生活用したもの。周防大島出身の福元は、明治の末にアメリカ・サンフランシスコへ渡り、若くして貿易業で財を成した人物。帰国後の1926年に、この立派な木造二階建ての家を建てました。
■参考:2
■参考:日本人と海外渡航の歴史


入館料は400円。館内は撮影禁止となっています。展示されているのは、ハワイから帰国した町民やその家族から寄せられた品々が中心です。売店では、マカダミアチョコやアロハシャツといった、ハワイらしいお土産も売られています。ただ、資料館としての印象は、正直なところ期待外れでした。

1999年の開館ということもあってか、周防大島町の施設でありながら、どこか手作りの雰囲気。モノは数多く並んでいるのに、その解説は少なく、全体にごちゃごちゃとした印象です。ハワイだけでなくブラジルやペルーへの移民の話まで詰め込まれていて、周防大島が「瀬戸内のハワイである理由」を、十分には伝えきれていないように感じました。
■参考:周防大島が「瀬戸内のハワイ」と呼ばれる理由


周防大島が瀬戸内のハワイであることを象徴するイベントとして、夏のあいだの毎週土曜日には、フラのイベント「サタデーフラ」、略して「サタフラ」が開催されます。観覧は無料で、出演する側が出演料を払う仕組みです。それでも全国各地から踊り手が集まります。

ただ、町の人口が1万人以上であることを考えると、サタフラに出演する島民はそれほど多くありません。イベントとしては大いに賑わっているものの、フラが本当にこの島に根づいた文化なのかというと、そこは少し分からないな、というのが正直な感想です。
人口密度日本一だった島・沖家室島に上陸
「瀬戸内のハワイ」というのは、あくまで観光用のキャッチコピー。島のなかでは、あまり浸透していないような印象を受けました。

島の歴史を知らない移住者が増えていることも、その一因かもしれません。もっとも、人の出入りが多いのは、今に始まったことではありません。周防大島は昔から、多くの人が海を渡っていった島でした。なかでも、とりわけ多くのハワイ移民を送り出したのが沖家室島です。

全長380mの沖家室大橋(1983年に開通)を車で渡り、屋代島から沖家室島に上陸しました。ここからは、島を歩いて撮った写真とともに、その歴史を辿ります。
漁業の島とハワイの歴史

沖家室島には、中世から人が住んでいたそうです。しかし1588年、豊臣秀吉が出した海賊禁止令によって無人島となりました。再び島に人が住みはじめたのは1606年のこと。四国・伊予(今の愛媛)から、河野氏の重臣・石崎勘左衛門の一団が移り住んだのが、今に続く沖家室島の起こりと伝えられています。

江戸時代以降、沖家室島は瀬戸内海を行き交う船の要衝として栄えていきました。長州藩もこの島に拠点を置き、船の往来を取り締まる御番所、藩の公用船を納めた御舟倉、そして幕府の掟を掲げる高札場などを設置。島はさながら「海の関所」として機能していました。

沖家室島に上陸してすぐの場所にある「御舟倉の跡地」は、昭和の終わりまで造船所として使われ、今もその石垣が江戸時代の名残をとどめています。

こちらは沖家室島で唯一の寺院である泊清寺。参勤交代で九州の大名たちが休む本陣(≒休憩所・宿)を兼ねていました。1774年からは、海の事故で亡くなった人々を供養する常念仏の道場ともなり、その供養の営みは今日まで受け継がれています。

そんな沖家室島の運命を大きく変えたのが漁業でした。沖家室島は全体的に平地が少ないため、農業には向いていません。現在も人々が暮らしているのは島の北東部、屋代島に面した狭い平地部分だけで、道路が通るのもここだけです。

その代わりに恵まれていたのが、豊かな漁場でした。すぐれた一本釣りの漁法が持ち込まれると、鯛やハマチといった高級魚を求めて、各地から腕自慢の漁師が集結。江戸中期に周防大島へサツマイモが伝わり、島の食を支えるようになったことも追い風となって、人口は爆発的に増加しました。

周囲わずか5km程度の小さな島に、幕末から明治にかけて暮らした人は3,000人あまり。その賑わいは「家室千軒」と謳われ、当時としては日本一の人口密度だったといいます。当然のことながら、この人口はキャパオーバーだっため、島の漁師たちはより広い海へと漕ぎ出していきます。
■参考:島の規模と人口のバランスについて


当初は下関(山口県)や塩飽諸島(香川県)といった瀬戸内から、やがて朝鮮半島、台湾、中国(青島)へ。そして、ハワイの海にまで達しました。耕す土地を持たない島だからこそ、人々は海に活路を求めたのです。

とりわけハワイへの移住が本格化したのは、政府主導の官約移民が終わった1894年以降のこと。そのなかでも、とりわけ大きな成功を収めた人物として有名なのが、松野亀蔵と北川磯次郎です。

沖家室島出身の2人は、1907年にハワイ島ヒロで『スイサン株式会社(Suisan)』を設立。魚の流通・加工を手がける、ハワイ初の日本人漁業会社で、現在はハワイ名物のポケ丼を出す名店として知られています。

こうしてハワイへ渡った沖家室の人々は、漁業を中心に活躍し、家族や親類を呼び寄せながら、現地に暮らしの基盤を築いていきました。その縁は今も生きていて、ハワイをはじめ各地には、島にルーツを持つ人々の集まり「かむろ会」があるそうです。

かつて3,000人が暮らした島に、今住むのは100人足らず。それでも、この小さな島が世界へ広げた縁は、海を越えて、静かに受け継がれています。
■参考:3
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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周防大島は昔から、多くの人が海を渡っていった島でした。なかでも、とりわけ多くのハワイ移民を送り出したのが沖家室島です。全長380mの沖家室大橋を車で渡り、屋代島から沖家室島に上陸しました。かつて人口密度が日本一だった漁業の島。今回は島を歩いて撮った写真とともに、沖家室島とハワイ移民の歴史を辿ります。
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