小笠原諸島に人が住み始めた理由を解説!ポイントは植民地拡大と捕鯨活動|2016 小笠原旅行記4

初めての小笠原諸島

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今回は【2016年 小笠原諸島旅行記】その4をお届けします。

★前回の記事は こちら

小笠原諸島に人が住み始めた理由

2016年9月9日、父島滞在2日目は小笠原観光で原付を借りて、島を1周することにしました。

マップに示した赤線が父島の1周道路(約20km)。海岸線に沿ってはおらず、半分は山の中を走ります。

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そして自然保護の観点から、一般人がガイドなしで立ち入ることが出来るエリアも、基本的にこの道路沿いのみ。例えば、マップにある「東海岸」の方面に行くことは出来ません。

村営バスを利用すると、海沿いを走り「小港」まで行くことが出来ます。1時間から2時間に1便のペースで運行があり、1回乗車は200円。500円の1日乗車券も500円もありますが、バスだけで島を1周することは出来ません。

小笠原諸島を発見した人物は?

階段を上った先に社殿がある

まずやって来たのは、港のそばにある「大神山神社」。ここは、小笠原諸島に人が住み始めた当初の歴史をおさらい出来る場所です。

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小笠原諸島は1593年に、信州深志城主の曾孫・小笠原貞頼が発見したと伝えられています。そして父島に「大日本天照皇大神宮の地」と記した標柱を建てたことが、この神社の由来です。

おみくじ・お守り・御朱印もありますが、社殿はおがさわら丸の入港日と出港日の限られた時間しか営業していません。

小笠原貞頼が祀られている小笠原神社

父島にはもうひとつ、小笠原貞頼が祀られている小笠原神社があります。

小笠原神社の鳥居

小笠原村が作成した資料にある年表の始まりは1543年。スペイン戦艦サン・ファン・デ・レトラン号が硫黄列島を発見したとある一方で、年表に小笠原貞頼の名前はありません

実は、小笠原貞頼が小笠原諸島を発見したという話は、江戸時代(1700年代前半)に「貞頼の子孫」を自称した、小笠原貞任によってでっち上げられたもの。その嘘は貞任が存命の間にばれており、貞任も処罰を受けましたが、結局現在まで『小笠原諸島』という名前が続いてるのです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_4681-1024x768.jpg です

一方で江戸幕府は、南方に島があることは認識していたようで、1675年4月から6月にかけて、嶋谷市左衛門一行を調査のために派遣。地図が作製するだけでなく、父島と母島に祠を建て、島の草木や鳥を江戸に持ち帰ったそうですが、人が定住するには至りませんでした。

当時は、小笠原の北に浮かぶ伊豆諸島の島々が幕府の直轄地(天領)となっていましたが、自然災害が多く、度々飢饉に見舞われており、幕府も島の産業を維持する難しさを感じていたと思われます。

■参考:江戸時代の伊豆諸島について

欧米列強の植民地拡大と捕鯨活動

こちらは大神山神社の先にある展望台。周囲を山(丘)に囲まれている二見湾は波の影響を受けにくい天然の良港で、現在もおがさわら丸の高い就航率を支えています。

★参考:台風でも欠航しない船 おがさわら丸

おがさわら丸から見た二見湾

1800年代から、植民地拡大や捕鯨活動(鯨油を求めていた) が活発になり、欧米列強の船が太平洋で頻繁に航行するようになりました。日本が鎖国をする中で、船に対する燃料や食料の補給基地、また避難港として注目されたのが、無人島・小笠原諸島です。

■参考:1824年 宝島にイギリス人たちが上陸

1823年、アメリカ捕鯨船トランジット号が母島を訪れ、船長コフィンがアメリカ領土であることを宣言。1825年にはイギリス捕鯨船サプライ号が父島へ寄港。1827年に来航したイギリス軍艦ブロッサム号の艦長ビーチーが、父島をピール島、二見湾をポートロイド、母島をベイリー島と命名しました。

出入国港にも指定されている二見港にはクルーズ船も入港する

一方で、引き続き無人島であることは変わりませんでしたが、1830年6月26日、ハワイからやって来た欧米人5人(アメリカ人2名・イギリス人・デンマーク人・イタリア人)と太平洋の島々に暮らす人々の計20数名が父島へ上陸。そのまま島に定住し、農業や漁業を営みながら、寄港する船に水や食料を供給することで生計を立て始めました。

当時はイギリスが小笠原の植民地化に積極的だったようです。しかし、1840年のアヘン戦争を経て締結された南京条約(1842年)で、香港を手に入れたイギリスは、小笠原への関心が薄れたとされています。

■参考1

ペリーが小笠原に上陸

1853年7月、ペリーの黒船が、浦賀(神奈川)へ来航したことは広く知られています。国立国会図書館国際子ども図書館のホームページによると、アメリカは清(中国)との貿易や捕鯨の中継地とするため、日本に開国を求めました。

その約半年後、再び来航したペリーは、江戸幕府に対し和親条約の締結を迫ります。こうして締結されたのが1854年3月の日米和親条約です。ここから日本は開国、そして明治維新の時代を迎えることとなります。

■参考:ペリー来航以降の歴史について

アメリカ本土からはるばる日本へやってきたペリー一行ですが、その航路はあまり知られていません。出港は1852年11月下旬のアメリカ東部・ノーホーク。そこからアフリカ西岸を南下し、喜望峰からインド・セイロンに寄港した後、マラッカ海峡から東アジア地域へ入りました。

那覇にあるペリー上陸の碑

1853年5月下旬、沖縄・那覇に到着し、沖縄本島を一通り調査。次に上陸した地が父島でした。結局この時もまだ小笠原諸島の主権は不明確で、ペリーは欧米系島民・セーヴォレーと交渉し、を購入。さらに、セーヴォレーを長官とするピール島植民地政府を作るよう指示したとされています。

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サンフランシスコ~上海間の太平洋横断ルートをアメリカ経済発展の生命線と信じたペリー。そのルート上にある沖縄(当時は琉球)と小笠原諸島は補給基地として最適で、アメリカの支配下になければならないと考えていたそうです。

■参考2

しかし、イギリスが香港を手に入れたのと同様に、日米和親条約締結によって日本本土で補給を受けられるようになると、アメリカにとって小笠原の重要性は下がったと考えられます。当然イギリスの抗議もあり、ペリーは父島の石炭貯蔵用地購入が私的行為である回答しました。

小笠原が国際的に日本領土と認められる

小笠原を巡る動きに対し、1861年、ようやく江戸幕府は 外国奉行・水野忠徳やジョン万次郎らを乗せた威臨丸を派遣。

港にあるクジラのモニュメント

島民へ江戸幕府による領有宣言と開拓が伝えられましたが、1862年に薩摩藩士がイギリス商人リチャードソンらを殺傷した「生麦事件」が発生。イギリス艦隊による攻撃を恐れた幕府は、小笠原にいる日本人島民の引き上げを決定しました。

東京都道240号父島循環線

明治維新の混乱が収まった後、小笠原が国際的に日本領土と認められたのは1876年のこと【教科書的には「小笠原回収」と言われる】。小笠原は内務省の主管となり、扇浦海岸の近くに役所が置かれました。

扇浦海岸

1878年には扇浦の仮小学校が開校し学校教育がスタート。当時から学校では日本語と英語両方を教えていたそうです。小笠原の欧米系島民全員が日本へ帰化したのは1882年のことです。

1880年、小笠原は東京(当時は東京府)の島となり、東京府小笠原島出張所が設置されました。こちらは2020年の国勢調査から作成した小笠原村(父島・母島)の産業構成。島民の公務員が4分の1以上であることが分かります。

ちなみに、国勢調査には「観光業」という項目がありません。今回原付を借りた小笠原観光さんも、海のツアーや宿泊業、レンタル事業など、その業務は多岐にわたっており、そもそも「観光業」の定義は非常に曖昧です。小笠原で観光関連の仕事をしている人の数は不明ですが、「宿泊業・飲食サービス業」に従事している人の割合は公務員の次に高くなっています。

こちらはメインストリートの外れにある気象庁の父島気象観測所。中央気象台によって、前身の「小笠原測候所」開設されたのは1906年。なかなか歴史のある機関です。もともとは現在のウェザーステーションの場所に施設がありました。

父島で人気の物件は都営住宅(家賃が安い)

他にも小笠原の島々には国土交通省や環境省など、各省庁の事務所の他、東京都小笠原支庁、村役場、自衛隊施設もあるので、公務員の数は多くなります。今も昔も、小笠原は行政(国)の影響を受けている島なのです。

移住者の増加と農業の発展

原付で父島を1周している途中、「メェ~」という声が聞こえたので、周囲を見回すと崖にヤギがいました。

海洋島ならではの独自の生態系が評価され、世界自然遺産にも登録された小笠原。しかし、島に人が暮らし始めると同時に農地が開墾され、家畜が放牧され、犬や猫などの外来種もやってきました。なんとペリーさんも、父島の北部に牛を4頭、弟島に羊2頭と山羊6頭を放獣した記録が残っているそうです。

こちらは木々に装着されていた「環境省 グリーンアノール駆除事業」と書かれたキット。グリーンアノールは外来種のトカゲ。つまりこのキットは『グリーンアノールホイホイ』です。現在も小笠原では外来種の駆除が進められています。

こちらは「ねこ待合所」。野良猫もまた、貴重な鳥などに危害を与えるとして、捕獲が進められています。ヤギは基本的に銃殺されますが、猫は一旦ここで保護され、都内の動物病院へ運ばれた後、新しい飼い主が見つかり次第引き渡される仕組みとなっています。

小笠原の外来種 ランタナ

1876年に小笠原が日本の領土として認められると、日本本土や伊豆諸島からの移住者が増加。サトウキビやカボチャなどを栽培するため、農地の開墾はさらに進み、薪炭材供給のため森も切り開かれ、父島と母島では、1910年頃までに原生状態の森のほとんどが失われたとされています

小笠原ではコーヒーも栽培されている

その当時から現在まで栽培が行われている、小笠原ならではの農作物のひとつにコーヒーがあります。

コーヒーの果実(沖縄にて)

日本でコーヒーの露地栽培が行われているのは、小笠原・沖縄・徳之島だけ。収穫までに5年、しかも収穫時期には台風が襲来するため、国産コーヒーの生産量はまだまだ少ないです。

■参考:沖縄のコーヒー農園の様子

父島の南部にある「USK COFFEE」では、小笠原産のコーヒーを飲むことが出来ます。

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USK COFFEE

1878年、榎本武揚がインドネシアからコーヒーの苗を父島へ試植。これが日本のコーヒー栽培が始まりとされており、戦争で一時途絶えましたが、戦後に野生化していたコーヒーの木々が発見され、現在も栽培が続いています。

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初めて小笠原を訪れた時はこうした歴史を全く知らず、私がUSK COFFEEで注文したのはパッションソーダ(スターフルーツ入り)。東京の島々では、パッションフルーツの栽培が盛んで、その生産量は鹿児島・沖縄に次いで全国3位となっています。

★参考:沖縄のパッションフルーツ農園を見学

父島のお土産にもパッションフルーツを加工したお菓子が多く、島の特産品のひとつと言えるでしょう。

様々な地域の人々が滞在していた

第一次世界大戦後、日本が南洋群島を統治するようになると、中継地として賑わった小笠原。1920年の国勢調査によると、各島々に約5,400人が暮らしていたことが分かります。

開発が進んだ小笠原では、サトウキビや亜熱帯気候を活かした農作物の栽培、カツオ・マグロ漁、サンゴ漁、捕鯨など、一次産品を本土へ出荷することによって繁栄したそうです。

■参考:南洋群島の歴史

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_0509-1024x768.jpg です

こちらは父島のコペペ海岸。ギルバート諸島の先住民「コペペ」が利用していたというのが、この海岸の名前の由来です。

上の地図には4つのピンが立っています。左から順に小笠原→グアム→ギルバート諸島→ハワイという位置関係です。

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欧米の船が寄港し、南洋群島と日本の中継地にもなった父島には、様々な地域の人々が滞在していたと言われており、コペペさんもその一人だと思われます。

こちらは「南洋踊り」。大正末期に欧米系島民がサイパンで覚え、小笠原へ伝えたと言われる踊りです。

カカという打楽器のリズムに合わせて踊りますが、歌詞の一部は「ウワドロフィ イヒヒ イヒヒ」など、日本語ではありません。小笠原の独特な歴史を今に伝えるとして、東京都の無形文化財に指定されています。

さらに、小笠原に初めて定住した人々がハワイからやって来たことにちなんで、現在はフラダンスやウクレレなど、ハワイ風の文化も引き継がれています。

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