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今回は「2025年 沖縄・八重山諸島旅行記」その3をお届けします。
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竹富島を歩いて観光
2025年10月19日、日本最南端の有人島・波照間島へ渡る予定を急遽変更し、石垣島から日帰りで竹富島へやって来ました。

竹富島での滞在時間は約2時間半。島内を歩いて観光する前に、まずやって来たのは、港のそばにあるビジターセンター「ゆがふ館」。2004年に開館した環境省の施設で、竹富島の自然や、祭事・芸能といった伝統文化などを紹介しています。

こちらは、ゆがふ館の前にある、2018年に復元された「フナヤー(かつて船を待つ人のために建てられた小屋)」。フナヤーが現役だった頃は、寒くなると屋根の茅葺を抜き取って燃やし、暖を取っていたそうです。なお、フナヤーの中に入る事は出来ません。
ゆがふ館には20分ほど滞在し、続いては15分ほど歩いて、島の中央にある集落へ。

サンゴ礁の隆起によってできた竹富島。島の最高地点33.1mで、アップダウンが少ない平坦な島です。南半分は海岸線に沿った道がないため、島をぐるっと1周することは出来ません。
■参考:2017年 竹富島旅行記


八重山諸島では肉牛の飼育が盛ん。竹富島の道端にも黒毛和牛がいましたが、2020年の国勢調査によると竹富島で農業(=畜産)に従事している人は5名しかいません。最も従事者が多いのは「宿泊業」であり、観光の島であることが伺えます。

港から歩くこと約15分、集落の入口にあたる「スンマシャー」に到着。スンマシャーとは、集落の入口に巨木とそれを取り囲むように石垣を積みまわしたもの。風水思想に基づく集落作りの現れのひとつで、病魔や凶事が集落に侵入するのを遮るために設けられているそうです。

集落に足を踏み入れると、道はコンクリートから、サンゴを砕いた白砂へと変わります。サンゴ礁の石を積んだ石垣と、赤瓦の古民家が並び、絵に描いたような沖縄の原風景といえるでしょう。

ちなみに、沖縄の瓦が赤いのは、焼き方によるもの。もともと灰色だった沖縄の瓦は、薪の不足から低温で焼くようになった結果、鉄分が酸化して赤く発色するようになったといわれます。この赤瓦は断熱性にすぐれ、南国の強い日差しにもよく合っていたのです。
竹富島の歴史~赤瓦はいつの時代のもの?
竹富島に初めて赤瓦屋根の家が建ったのは1905年とされています。

かつて瓦葺き(屋根を瓦で覆うこと)は、琉球王国の王府や寺社、士族といった上層の人々にのみ許された特権で、庶民には手の届かないもの。それが琉球王国の終焉(1879年の琉球処分)を経て制限が解かれ、ようやく一般の家にも赤瓦が使えるようになりました。
■参考:琉球王国の歴史

島に現存する最古の赤瓦建築は、1913年に建てられた「旧与那国家住宅」。主屋「フーヤ」と台所棟「トーラ」を並べた伝統的な造りをよく伝えており、2007年には竹富町で初めて国の重要文化財に指定されました。

沖縄民謡を代表する一曲「安里屋ユンタ」。そのヒロインとして歌われる美女・安里屋クヤマは、1722年に竹富島で生まれました。島にはいまも「生誕の地」とされる赤瓦の家が残っていますが、当時この島に赤瓦の屋根はなかったはず。

竹富島では、戦争の空襲による被害は少なかったそうですが、赤瓦の古民家は、瓦や漆喰を買い、大工を雇って建てる、いわば『富の象徴』。1964年の時点でも、竹富島の家々の4割はまだ茅葺きのままだったそうです。

集落全体が赤瓦一色に染まったのは、伝統的な町並みを守ろうという保存運動が高まった1970年代以降とされています。
■参考:1
竹富島の観光地化
こうした景観に惹かれて、竹富島には人口の千倍以上にあたる、年間約50万人もの観光客が訪れています。

1970年代のはじめ、度重なる干ばつと台風に見舞われて島が疲弊するなか、リゾート開発を見込んだ本土の資本が押し寄せ、島の土地を次々と買い占めていきました。当時の竹富島は深刻な過疎に悩み、土地を手放したい地主も少なくなかったそうです。

結果として、約3分の1の土地が島外の資本の手に渡ることとなります。しかし、1972年の本土復帰を機に、島を守ろうという機運が高まりました。有志によって「竹富島を生かす会」が結成され、「金は一代、土地は末代」を合言葉に、土地の買い占めに抗います。この運動が実を結び、大規模なリゾート開発は食い止められました。

ちょうど土地騒動と同じ頃、レジャーブームや離島ブームによって、竹富島に観光客が訪れるようになります。外部資本による開発構想は頓挫しましたが、代わりに島の人々が自らの手で始めた民宿やマイクロバス観光、そして水牛車観光が、じわじわと根づいていきました。

いまや竹富島の代名詞となった水牛車観光が始まったのは、1970年代半ばのこと。もともと水牛は、対岸の由布島で農耕用に使われていました。それが農業の機械化で役目を失い、竹富島へ連れてこられて、荷物運びや宿の送迎に使われるようになったのが始まりです。
■参考:由布島について


送迎の車がなかった時代、民宿は水牛車で桟橋まで客を迎えに行っていたのだそう。実用の道具が、いつしか竹富島観光の主役になったというわけです。
集落の中心に立つ「なごみの塔」も人気の観光スポットですが、本来は島の人々に、連絡事項を大声で知らせるために建てられた物見の塔。観光用に作られたものではありません。

かつては上って赤瓦の集落を見渡せる展望台として親しまれていましたが、老朽化のため2016年から立ち入りが禁じられています。

こちらは1938年に築かれた西桟橋。稲作に向かないこの島の人々は、かつてこの桟橋から対岸の西表島まで船で渡り、米を作る「通耕」を続けていました。

1971年頃に桟橋としての役目を終えましたが、2005年には国の登録有形文化財に登録され、いまや多くの観光客が足を運ぶ名所となっています。

やがて、民家の茅葺きは赤瓦へと置き換わり、白砂の道とサンゴの石垣を伴った、「いかにも沖縄らしい」景観が、島全体のスケールで意識的に整えられていくこととなります。今では小中学校も赤瓦の屋根です。

こちらは「竹富島憲章」。島の文化と自然を守り、それを島民自身の暮らしに生かしていくため、1986年に住民全員の総意によって定められた自主的なルールです。掲げる基本理念は5つ。
- 土地や家を島外の人に「売らない」
- 島を「汚さない」
- 美観や風紀を「乱さない」
- 由緒ある家並みや自然を「壊さない」
- 伝統行事や地場産業を「生かす」

1987年、竹富島の集落は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
■参考:2
星野リゾートによる開発の経緯
こうした竹富島の事情がありながらも、2012年に開業したのは「星のや竹富島」です。

宿一帯は、かつて本土企業に買収された土地でした。島内企業である「南西観光」、その土地を買い戻したものの、資金を借り入れた際の担保として、その土地に抵当権(=いざとなれば土地を差し押さえて売れる権利)が設定されていました。

抵当権は売買や譲渡ができます。A銀行が持っていた抵当権を、Bファンドに売る(譲る)ことが可能です。竹富島のケースでは、当初の貸し手が持っていた抵当権が、巡り巡って外資系ファンドに渡り、島の土地の行方を左右しかねない状況になってました。

そこで持ち上がったのが、星野リゾートによる開発計画です。当然のことながら反発はあったそうですが、「事業の収益で土地を買い戻し、いずれは島に土地の主導権を返していく」という提案と、複数回にわたる説明会の後、受け入れが決まったという経緯があります。いわば、リゾート開発が島の土地を守る手段になったといえるでしょう。

星野リゾートの後にも、何度かリゾートホテル開発の話は出ているそうですが、やはり住民らの反対によって、悉く頓挫しています。

竹富島から石垣島までは、船で10分~15分。便数も多いので、「宿は石垣島でいいんじゃないか」というのは、私も思う所です。
島を歩いている途中、大雨が降って来ました。いわゆる「カタブイ」という、沖縄ならではの雨です。
■参考:カタブイとは


雨が上がった後は、道全体が水たまり。もし観光客のために隅々まで舗装され、水はけよく整備されていたら、こんな光景は生まれなかったはず。年間50万人が訪れる島でありながら、暮らしの素朴さがそのまま残っているのが、竹富島の魅力なのだと思います。

今回は西集落と東集落を歩いて観光しました。16時20分、石垣島行きの八重山観光フェリーに乗船。この日は石垣島に宿泊します。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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石垣島から日帰りで竹富島にやって来ました。今回は竹富島を歩いて観光しながら、島の歴史や観光地化、星野リゾートによる開発の経緯を考察してみました。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定された竹富島の集落。果たして、ここに残る沖縄の原風景はどのように作られていったのでしょうか。
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