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今回は【2019年 渡名喜島旅行記】後編をお届けします。
★前回の記事は こちら ★
沖縄の原風景が残る島を観光
沖縄で一番小さな村・渡名喜村。渡名喜島と無人島・入砂島の2島で構成されており、村の人口は346人です(2020年国勢調査より)。
なお、入砂島(出砂島)は沖縄戦を経て、1954年に米軍の射爆撃場に指定され、現在も無人島となっています。NHKの朝ドラ「ちゅらさん」のオープニングにも登場した島ですが、一般人の上陸が認められているのは日曜日だけです。
こちらが渡名喜島から見た入砂島の様子。ヘリが近づいた後、島から砂煙の上がっている様子が分かります。島を歩いている時も、マシンガン?のような「ダッダッダッダッダッ」という音が鳴り響いていました。
渡名喜村の人々が暮らす集落は、フクギに囲まれた赤瓦の古民家や砂の敷かれた道路が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。沖縄らしい原風景が渡名喜島の魅力のひとつです。
集落を歩いていると、道端に「チキシ」という案内板付きの石を見つけました。どうやらただの石ではなく、悪魔除けに使われていたそうです。
「沖縄の原風景」で有名な竹富島は、すっかり観光地になっていますが、渡名喜島は観光客も少なめ。観光用に作られた場所ではなく、生活の場であることを忘れてはいけません。細い道ですが車の往来もあります。
■ 参考:竹富島旅行記
こちらは路上駐車ならぬ「路上駐船」(笑)島ならではの光景です。
大和食品は営業していない(と思われる)お店。古民家の中にあるハイカラな雰囲気の建物です。島にコンビニはなく、商店も「あるらしい」という情報のみ。私は見つけることが出来ませんでした。
海抜0mよりも低い場所にある家は、地面が自然の壁となり、風を防ぐことが出来るそうで、洪水よりも「風」が大変である様子が伺えます。
家々を囲むフクギも風対策のひとつ。他にもフクギは防潮林や建築材、さらには葉に水分が多く含まれて燃えにくいことから、防火対策としても利用されています。
渡名喜島のゆるキャラも、フクギにちなんだ「フーちゃん」です。
一番小さな村の歴史と人口・産業を知る
村のホームページによると、渡名喜島の開拓が本格化したのは1870年代後半以降。人口増加に伴い、焼き払われた山林に作られた段々畑で芋の栽培が行われました。その後は養豚や鰹漁を基幹産業に、1910年代にかけて栄えたそうです。
しかし、第一次世界大戦後の不景気の煽りを受け、豚と鰹節の価格が暴落。島の男性の多くが日本の委任統治領・ミクロネシアで鰹漁を行うようになったため、当時の渡名喜村の現金収入の大部分は南洋からの送金によるものでした。
そこに追い打ちをかけたのが太平洋戦争です。現金収入が無くなったことはもちろん、毎日のように空襲があり、沖縄本島との通信も途絶えたため、終戦が告げられた1945年9月まで、渡名喜島の島民は食糧不足にも苦しめられました(米軍の上陸は無かった)。
■ 参考:沖縄戦について
終戦直後は南洋諸島や沖縄本島からの引揚者が殺到し、渡名喜村の人口は一時2千人を超えたそうです。豊富な労働力と援助物資を背景に漁業が復活し、沖縄屈指の漁港となりまたが、高度経済成長をきっかけに過疎化が始まります。
人口が増加していると言われる沖縄ですが、沖縄本島北部や離島は現在も人口減少と高齢化が進行中です。渡名喜島にあるのは小中学校まで。高校は島外へ進学することとなります。
こちらが島のお仕事。建設業(=公共工事)・公務・教育(=先生)が島の産業の半数を占めており、税金で成り立っている島であることが分かります。
こうした小さな島では、よそ者が土地を取得することも難しいため、なかなか新しい産業が育ちません。
さらば渡名喜島
渡名喜島には「朝起き会」という、島の子供たちが朝のラジオ体操の後、道を綺麗に掃く風習があります。100年近く続いているそうで、平成18年にはAC公共広告機構のCMでも紹介されています。
さらに夜は道路がライトアップされ、幻想的な景色が広がります。その景色は島に宿泊した人だけが見ることの出来る特権です。
こうした集落の原風景も、人が住んでいるからこそ成り立つものです。今後はより貴重なものになっていくかもしれません。
久米島で折り返してきたフェリー海邦がやって来ました。乗船券は往復で購入していたので、乗船手続きなどは不要です。
さらば渡名喜島。日帰りでも十分楽しめましたが、次は島に泊まってみたいなと思います。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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