徳之島コーヒーが飲めるお店へ!犬田布岬で琉球王国と硫黄鳥島の歴史にも触れる|2022 旅行記4

旅の思い出

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「2022年 徳之島旅行記」その4をお届けします。

★前回の記事★

徳之島最西端・犬田布岬まで歩く

路線バスで徳之島を1周する旅をしています。

亀徳新港(徳之島町)から空港と平土野(天城町)を経由し、『岬入口(伊仙町)』でバスを降りました。

バス停から徳之島最西端・犬田布岬までは「とうばる(平原)」という集落を30分ほど歩きます。

歩く道はこんな感じ。

1枚の写真に牛舎・さとうきび畑・海が収まる、鹿児島と沖縄の離島を象徴するような景色が見られます。

こちらは道端にあった不法投棄への注意喚起看板。輝きが失われた女の子の目が何だか不気味です(笑)

途中には商店もありました。

草木が刈られ、視界が開けている場所がありました。気になったので海の方を見てみると…

眼下に大変美しい港がありました。こちらは前泊漁港。薩摩藩政時代、集落で収穫されたさとうきびが集まり、ここから町内にあるもうひとつの港・鹿浦港へ運ばれたそうです。

海の透明度が高いので、まるで船が浮かんでいるようにも見えます。晴れた日の日中は、徳之島随一の絶景を見ることが出来ます。

30分歩く予定でしたが、途中でタクシーのおじちゃんに声をかけてもらい、なんとサービスで犬田布岬まで送っていただきました

声を掛けてくれたおじちゃんとタクシー

ということで、徳之島最西端・犬田布岬に到着!

東シナ海に突き出た岬で、波風の浸食を受けた琉球石灰岩の「海蝕崖」という海岸地形が見られます。

奄美十景や奄美群島国立公園の一部にもなっており、駐車場も広く、徳之島を代表する観光スポットであることが伺えます。

徳之島コーヒーが飲めるお店へ

岬からの景色も美しいですが、今回私が犬田布岬を訪れた目的がこちら。

犬田布岬の駐車場にある『喫茶コーヒー スマイル』です。徳之島は沖縄・小笠原諸島と並ぶ数少ない国産コーヒーの生産地。スマイルでは、年間を通じて貴重な徳之島コーヒーをいただけます。

★参考:日本のコーヒー栽培について★

徳之島にコーヒーを持ち込んだのは吉玉誠一さん。現在は徳之島コーヒー生産者会会長を務めています。1980年に徳之島へ移住するまでは、大阪で働いていたそうです。

店内の様子と奥様

そして、スマイルを切り盛りしているのは吉玉さんの奥様。

色々なお話を聞きながら、島で栽培された吉玉さんのコーヒーを味わうことが出来ます。私は昼食も兼ねて、徳之島コーヒーとピザトーストを頂きました。

農業の道を志していた吉玉さんは、戦前~戦時中に海外から持ち込まれたキャッサバ(タピオカの原料)が、島内で自生しているのを発見。キャッサバはブラジル・インドネシア・ベトナムなど、コーヒーの生産地でも栽培されている作物です。

この過程が全て島内で行われています

「キャッサバが育つならコーヒーも育てられる」と考えた吉玉さんは、当時奄美大島・宇検村にいたコーヒーノキの所有者から苗木100本を譲り受けて、徳之島でのコーヒー栽培をスタートしました。

左は地球の歩き方

徳之島でコーヒー栽培がスタートから数十年が経ち、今では島内に30名近くのコーヒー生産者がいるそうです。2017年からは島内のコーヒー生産者・伊仙町役場・味の素AGF・丸紅がタッグを組んで、「徳之島コーヒー生産支援プロジェクト」も行われています。

硫黄鳥島(沖縄県)の歴史に触れる

スマイルではコーヒーの話だけでなく、常連の年配の方から「硫黄鳥島」のお話を聞くことが出来たのもよかったです。

硫黄鳥島は犬田布岬からさらに西へ約65kmの海上に浮かぶ島。現在は無人島ですが、1967年までは人が暮らしており、硫黄鳥島で採掘された硫黄と徳之島の農作物とで、物々交換が行われていたそうです。

天気がいい時には、徳之島からも硫黄鳥島の島影が見えるとのこと。こちらの写真、水平線の先にうっすらと見えている島が硫黄鳥島だと思い込んでいましたが、後で確認すると沖永良部島でした。

犬田布岬からの景色

硫黄鳥島の住所は沖縄県久米島町。沖縄県最北に位置する、沖縄唯一の火山島で、歴史上一度も鹿児島県や薩摩藩に属したことはありません。硫黄鳥島の火山活動で産出された硫黄を中国へ輸出することで、かつての琉球王国は交易国家として繁栄したとも言われています。

沖縄・首里城公園にて

始まりは琉球王国成立前の1372年、当時の明(中国)の皇帝・洪武帝は1271年にモンゴル帝国第5代皇帝・フビライ=ハンが北京に置いた王朝「元」を追い出すため、火薬の原料として硫黄を必要としていたとされています。

★参考:琉球王国と中国の関係について★

犬田布岬へ向かう途中にある前泊港

洪武帝が中山(沖縄中部)の王・察度に朝貢するよう求めてから、沖縄は中国の冊封体制に組み込まれることとなりました。

奄美大島から徳之島へ向かう船から

なお、絶海の孤島で水源もなく、さらに噴火も多発する硫黄鳥島に、いつから人が住んでいるのかは明らかになっていません。

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島内の自販機は今も沖縄風

1429年に成立した琉球王国は勢力を拡大し、間もなく徳之島も王国の支配下に入りましたが、1609年の薩摩侵攻以降は薩摩藩、そして鹿児島県に属することとなります。

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徳之島の家は日本風(屋根の上にいるのはシーサーではない)

薩摩藩は琉球王国を存続させ、支配下に置きながら、中国との朝貢貿易を続けさせました。そのため、琉球の主な輸出品である硫黄の原産地・硫黄鳥島も、引き続き琉球王国に属したと考えられています。

沖縄の古民家がこちら(沖縄にて撮影)

冊封体制が終わった明治以降も、硫黄鳥島には硫黄を採掘する住民がいました。しかし、硫黄以外の産物がなく、生活は困窮し、米の支給や納税義務免除(=全国唯一の無税の島)があった時代もあったそうです。

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お墓もまた日本風
沖縄のお墓がこちら(沖縄にて撮影)

1903年(明治後期)の噴火で、当時島にいた100戸676人らは島外へ移住する決断を下します。硫黄鳥島には硫黄採掘要員の93名(男54人・女39人)だけが残りました。島への常駐は、鉱業権者との契約により6カ月(後に1年)交代制だったそうです。

薩摩硫黄島にて 黄色い部分が硫黄

外国産の安価な硫黄が入ってくると、鉱山経営は不振となり、戦後間もなく硫黄の採掘は終了しました。

飛行機から見えた徳之島・伊仙町

終戦後は小学校も出来たそうで、今回スマイルで聞いた物々交換の話は、この頃のことだと思われます。1959年。大噴火の恐れから全島民が久米島へ移住。1967年の噴火で、硫黄採掘の従事者も撤退し、硫黄鳥島は完全な無人島となりました。

■参考1

■参考3

名物・闘牛のルーツも琉球王国?

徳之島の名物のひとつに「闘牛」があります。

亀徳新港にて

島では約1000年前から、農耕・運搬、さとうきびの圧搾などに牛が用いられており、牛が意図的に闘わせるようになったのが700年~400年前と言われています。

■参考 4

島の歩道のタイルにも闘牛

なお、徳之島の闘牛の由来に関する明確な資料は見出されていません。奄美諸島の闘牛に関する最も古い記録は、1850~1855年に奄美大島へ流された名越左源太による「闘牛図」とされています。

徳之島で放牧される肉用牛

沖縄県、特にうるま市でも闘牛が盛んですが、「明治後期には行われていた」ということが分かっているだけで、その起源は明らかになっていないとのこと。明治後期は琉球王国ではなく、すでに沖縄県の時代。『闘牛もまた徳之島が琉球王国だった名残』とまとめたいところでしたが、その真相は不明です。

そして犬田布岬にある「戦艦大和慰霊碑」もまた、沖縄の歴史と深く関わるものです。詳しくは次回。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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